第35話 微睡み
「暑いのでお気をつけて。お昼は梅がお持ちしますね」
「よろしく頼みます。行こうか八千さん」
「はい」
紫哭様の屋敷に向かうために、一緒に屋敷を出た。雲一つない真っ新な青空が広がっている。日差しを避けるように日陰を選んで歩いた。
「あっそうだ。忘れないうちにこれを」
若旦那様はなにやら思い出したかのように袂をごそごそと漁っている。そして一本の簪を取り出した。それは鼈甲の簪だった。深み掛った黄色に茶色の斑模様が入り優美さを持っていた。
「新しい髪飾りです。八千さんに・・・。少し前に買っていたんですが、渡せていなくて」
「私に・・・?」
「受け取ってください。本当は牡丹の物を探したんですが、見つからなくて」
「ありがとうございます。大切に使わせていただきますね」
まとめていた髪に、簪を差し込んだ。少し大人っぽい髪飾り。きっとこれから先、年月を共にしていく中で自然と似合ってくるのだろう。
□□□
「もう来たのか。随分と早かったな。蒼蜀」
「うん。店に寄らずに来たからね。それに、早い方が良いと思って。あとこれ、母から紫哭に」
「あぁ。毎度、寄こさなくてもいいのにな」
「紫哭が喜ぶのが珍しいって喜んでたよ。また感想も聞かせて欲しいって」
若旦那様が箱を風呂敷から渡すと、甘い香りが漂った。
そういえば、前に蕗子様のお部屋に入ったとき、とてもいい香りがしていた。香りの名前を聞こうと思って忘れていたけれど・・・。お花の香りかしら。
「八千さん、こっちですよ」
「あっはい。今行きます」
紫哭様の屋敷は、仕事部屋としても使っているため、ほとんどの部屋の障子が開いている。若旦那様に奥の部屋まで案内された。畳六畳ほどの部屋に鏡だけがる。そこに中庭が映り込んでいる。牡丹の木が植えられていた。
「では、鏡の前にお願いします」
「はい」
「えっと、反物はと・・・これか」
反物を片手に取ると、身ごろから合わせて行った。右肩にそっとかると、後ろにいた紫哭様に反物を手渡していく。一本の布がまるで着物を着ているみたいになっていく。
「若旦那様。音喜多様がお見えですがどうされますか?」
「えっ音喜多様が?明日の予定だったけど・・・仕方ない顔を出すよ」
「へい」
「すみません。八千さん。馴染みの方が来てるみたいで。顔を出してきます。ごめん、紫哭。袖の部分から頼むよ」
若旦那様は店の者と部屋を出て行った。
「前見てろ」
「はっはい」
若旦那様の姿を追っていた顔の向きを鏡へ戻した。紫哭様は慣れた手つきで、反物を滑らせていく。肩を通り手首で切り返した。
近すぎる紫哭様との距離に、つい視線が迷子になってしまう。
「指先伸ばせ。手はこっち」
紫哭様が軽く触れた指先に思わず力が入る。じんわりと熱が帯びていきそうだった。そのとき、紫哭様が簪に気付いた。
「珍しいな。鼈甲か?」
「若旦那様からいただきました。私には高価すぎる品です」
「あぁ、そだな。せっかくの品が付け方が雑すぎて勿体ねぇ」
「それはさっき、あっ!――」
簪を抜かれ、束ねていた髪がほどけてしまった。紫哭様はなにも言わずに、乱れた髪を手櫛で整え始めた。
「あの・・・」
鏡の中の自分と目が合った。紫哭様の姿も映っている。しなやかな指先が黒い髪を滑っていく。指先の感触に、胸の奥がきゅっと締め付けられている。
「ん、出来たぞ」
「・・・?わぁ、すごい!とっても綺麗です」
鏡で後ろを見た。そこには綺麗に上げられた髪から、粋に簪の飾りが見えていた。
今の短時間でこれを・・・?
「これくらいできるようにしておけよ。せっかく蒼蜀から貰ったんだろ」
「はい・・・。そ、そうですね」
鏡の中で視線が交わった。
「八千」
紫哭様に名前を呼ばれただけで、息が苦しくなった。
そんな風に見つめられると、隠していた想いが溢れ出してしまいそう・・・。
紫哭様の名前が口から零れかけた――。
「なんだー!紫哭お兄ちゃんこっちにいたのね」
「小春ちゃん来てたの知らなくて。奥の部屋にいるよ」
「おじゃましまーす」
玄関の方から若旦那様と、明るい女の子の声がした。その賑やかさを連れたまま部屋へとやって来た。花が咲いたかのように、女の子の表情が輝いた。
「わぁーい!本当に紫哭お兄ちゃんいた!」
紫哭様の胸に飛び込んだ。紫哭様の漆黒の着物に負けないほどの眩しい黄色の着物だった。
「小春っ・・・お前なにしに」
「もぉ、なにしに来たはないでしょう。将来の妻に向かってー!」
「相変わらず小春ちゃんは元気がいいな」
将来の妻・・・?
頬を膨らませながら、女の子が私に気がつくと、丸い目を更に丸くさせた。
「わぁっ綺麗な人!紫哭お兄ちゃん、どなた?」
紫哭様の袖をツンツンと引っ張りながら私を見ている。
「・・・蒼蜀の許嫁だ」
「あっこの方が!!通りで」
コロコロと表情を変えながら、ぴょんっと私の前に立つと、両手を握った。白くてふわふわな手。
「初めまして小春と申します。紫哭お兄ちゃんのお嫁さんになります、へへ」
頬を染めながらにっこりと笑う顔がとても愛らしい人だった。
あぁ、そうか・・・。この子が紫哭様と一緒になる方。
「おーい。小春!そろそろ帰るぞ」
「あっ小春ちゃん呼んでるよ」
「お父様ったら来るの早すぎ。女心がわかってないんだから」
「ははは。予定があるんじゃないかな。玄関まで送るよ」
「紫哭お兄ちゃん。また来るね。お仕事の邪魔してごめんなさい」
彼女の陽だまりのような笑顔は、見る人も笑顔にさせるようだった。手をひらひらと振りながら、玄関の方へ戻って行った。若旦那様が息を吐き、その背中を見ている。部屋の中を一瞥すると、玄関へと向かった。
「あ、あの方が・・・こないだ吉右衛門様が話されていた、見合いのお相手だったんですね。・・・と、とっても可愛らしい方。紫哭様は無表情だから、小春さんのような方で・・・良かった」
自分がなにを言っているのかわからなかった。ただ、沈黙になるのが恐かった。
紫哭様はなにも言わず、黙ったまま部屋を後にした。玄関の方からまた小春さんの声が聞こえてくる。
「紫哭お兄ちゃん見送りに来てくれたの!?嬉しい!小春だぁーい好き」
胸がきゅっと締め付けられた。唇を噛み、手で額を覆いたくなる。目の前で楽しそうに笑う小春ちゃんを、どうしても視線をそらせなかった。
だって、羨ましい・・・。
人目をはばからずに、好きな人に抱き着けて、好きと告げることができて。紫哭様に優しく抱かれて、唇を重ねられる。
こんな思いをするくらいなら、紫哭様と出会いたくはなかった――。
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