第29話 霹靂


 客人が岐路に着く頃、若旦那様が廊下で私の名前を繰り返した。別れの合図だった。

 私が紫哭様の胸から離れられずにいると、肩を押された。紫哭様は立ち上がり、黙ったまま部屋から出て行った。

 温もりを失った身体はとても冷たい。内臓から込み上げてくる息に、嗚咽を繰り返した。口を手で覆い、声が漏れるのを必死で押さえた。

 息を整えてから、廊下へと出た。


「あっ八千さん。こんなところにいたんですね」

「す、すみません。・・・着物が、えと、着付けがきつくて、少しなおしていました」

「そうでしたか。今日は八千さんも大変でしたよね。早くお休みになって――」


「キャァァーー!!」


 突然、屋敷中に叫び声が響いた。若旦那様と顔を合わせると、助けを求める声が上がった。女中さんや使用人が作業を止めて廊下へと出てきた。


「なに、今の叫び声は」

「洗い場の方から・・・?」

「わ、若旦那様」

「八千さんは先に部屋に戻っていてください」

「でもっ」


 若旦那様は廊下にいた使用人を連れて、洗い場へと向かった。女中の一人が、悲鳴から遠ざけるように私の背中を押していく。


 部屋に向かっていると、廊下の灯りが消えた。屋敷中の灯りが消えているようだった。


「やだ・・・どうして急に。八千様、少しお待ちください。すぐに灯りを持ってまいります」


 女中さんは、を壁に手を這わせながら引き返した。二歩、三歩と進んでいくと女中の身体は暗闇に紛れていった。

 心細さを抱きながら、月明りを頼りに、襖を開けた。障子から差し込んだ、わずかな月明りが今は心強い。居間に入り部屋を見渡した。

 初めて入る部屋だわ・・・。襖には竹と牙を剥き出しにした虎が描かれている。夜に見ると、その迫力はされに増している。床の間には掛け軸と刀が飾られていた。

 廊下を走って来る足音。女中さんの戻りが思ったより早かったことに、ほっと肩を撫で下ろした。


「・・・?」


 けれど、近づいてくる足音に違和感を感じた。ドンッドンッドンと床を叩きつけるようにして走ってくる。

 女中さんはこんな走り方しない・・・。もしかして、最初の悲鳴は夜盗でも入り込んだんじゃ・・・。

 私は急いで押し入れに身を潜ませた。息を殺し、奇怪な足音が通り過ぎるのを待った。ドンッドンッドンッと近づいてくる。思わず両耳をふさいだ。ドンッドンッ――。足音が部屋の前で止まった。

 勢いよく襖が開いた。ヒィッ、と出た息に両手で抑えた。ギィ、ギィと木の軋む音が、襖の向こうから聞こえてくる。人か妖か動物なのかすらわからない。そのどれにも当てはまらない・・・。震える身体を必死で抱え込んだ。


「みーつけた」


 か細い女の声がした。聞き覚えのある声に顔を上げると、押し入れの襖がバンッと開いた。


「探したわよ。八千様」


 息が止まった。

 月明りに照らされた、細い手には鱗がびっしりと張り付き、右の目下から顎先にもその鱗がついている。すぐに誰かわからなかった。でも、雪華さんであると気づいた。前にも着ていた紫陽花の浴衣だったから。鱗の付いた手が、私の首元にぬるりと近づいた。


「いやっ!!」


 這うようにして押し入れから飛び出した。すると、雪華さんが背後から飛び掛かってきた。


「うぐっ……!はなっ」

「逃げないで八千様ぁ。貴方に用があって来たのよ」

「やめって…」

「貴方がこの屋敷に嫁いでこなければね、私は蒼蜀様と一緒になれたのよぉ。だから、八千様には、いなくなってもらいたいの」

「うっぅ・・・」


 雪華さんは私に馬乗りになり、両手で首を絞め上げてくる。足に力を入れた。だが、まるで岩が乗っているかのように重く動かせない。あきらかに人の力ではなかった。


「ま、まさか・・・あやかし……?」

「私は人よ」


 そう――。妖なら見分けがついていたはず。なのに気づけなかった。


「いいえ・・・『人だった』と言った方が正しいわね」

「だっ、た?」

「蒼蜀様と結ばれるために、妖に身体を差し出した・・・病に侵されて、どうしもならなくなった身体を使ってねっ」


 雪華さんの手が強くなっていく。呼吸ができない。雪華さんの顔に手を伸ばすと、鱗が何枚か剥がれ落ちた。力が入らない・・・。


「そうすれば、寿命を延ばしてくれると約束してくれたの・・・蒼蜀様が生きて欲しいと言ってくれたから、だから・・・」


 そんなことしてはいけないと、伝えたいのにもう遅い・・・。人の寿命を延ばせる妖なんて、この世にいない――。


 人が妖を利用するように、妖も人の弱みに付け入る。


 月が雲に隠れ、部屋の闇が更に濃くなった。視界が薄雲がかかったように霞んでいく。


「蒼蜀様を愛しているから・・・。もっともっと愛し合いたい。それなのに、それなのにお前が来たせいでっ・・・死ねぇぇっ!」


 甘い猫なで声が、急に狂気に変わった。

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