第27話 花陰
屋敷の者が寝静まりかけた深夜。若旦那様が起きる気配がした。
このまま寝たふりを続けようか・・・。
目を閉じると、昨日の妖の姿が蘇ってきた。障子が開く音に私も部屋を出た。
「若旦那様・・・」
そこには、やはり若旦那様の姿があった。ゆるりと着流した浴衣の合わせからは、いつもより肌色を覗かせている。
「やっ八千さん!?どうしたんですか。こんな時間に」
「驚かせてしまいすみません。でも・・・こんなお時間にどちらへ」
「ぼっ僕はその、あっ厠の方に!もしかして、起こしてしまいましたかすみま」
「若旦那様は・・・雪華さんがお好きなんですか?」
暗闇の中で若旦那様の瞳が揺れた。でも、次の瞬間にはいつもと同じ微笑みを向けていた。
「突然どうしたんですか。違いますよ。僕には八千さんがいるのに、そんなわけないでしょう」
「で、でも以前、若旦那様があの人の部屋に入っていくのを見てしまいました」
「えっ・・・」
「お願いです。雪華さんのところにはもう行かないでください」
もし昨日のことが見間違いでないのなら。あの人は危険すぎる。
若旦那様を引き止めようとすると、頭をかきながらため息を零した。
「はぁ・・・参ったな」
床へと俯けていた顔を私へと向けた。すると突然、荒々しく腕を引かれた。
「キャッ!」
そのまま部屋へと招き入れられ、若旦那様は後ろ手で障子を閉めた。目の前には、寝乱れた布団が広がっている。若旦那様はそこへ私を組み敷いた。
「あ、あの」
「貴方はまだお若い・・・だから、我慢していたのに」
低い声が上から落ちてくる。若旦那様の手が、薄い浴衣の合わせへと忍び寄った。ビクッと身体が上下に震えた。けれど、若旦那様は構う様子はない。
「わか、だ」
「いいですよね。もう我慢しなくて。夫婦になるんだから」
「んっ…」
私の返事を聞かずに唇を塞いだ。唇を押し付けるように、何度も重ね合わせてくる。若旦那様の胸を力いっぱい押すけれど全く動かない。
耳裏から首筋にかけ、若旦那様の角張った指先が何度も往復していく。耐えがたい感覚に襲われ、若旦那様の手を掴んだ。――触れられることに身体が抵抗した。
「待っ、お待ちくださ」
「今更待ってはないですよ。八千さん」
若旦那様も熱を帯びた声に湧いてくる恐怖。離れようとしても、身体に力が上手く入らない。
いや、入ったとしても止めることができるの・・・?もし抵抗したら、逆らったら・・・。このまま若旦那様に愛されれば『契り』は果たされる。そのために、この屋敷に来た。
淡く抱けかけた紫哭様への想いなんて、一族の『契り』に比べれば、比べれば。
若旦那様のものになれば、理解なんて後からついてくるはず。私は唇を噛み締めながら、暗闇の中で目を瞑った――。
「早くっ!急いで」
「いつもの薬は!?」
「なんの騒ぎだい・・・こんな遅くに」
「雪華が倒れたらしいんだ!吐血してる。お湯を沸かしておくれ」
離れた廊下から、微かに聞こえた雪華さんの名前。目を開けると、若旦那様の熱を持った瞳が引いていく。
「ゆ、ゆきはな・・・?」
若旦那様は飛び起きると乱れた浴衣のまま、外へ出て行ってしまった。遠ざかっていく足音と、廊下を行きかう女中の足音が混ざっていく。
あぁ・・・やはり、若旦那様は雪華さんを好いておられる。急に身体がカタカタと音を立てて震え出した。若旦那様の匂いが染みついた布団に、うつ伏せになり呻き声を殺した。息をする度にヒューヒューと音が漏れ出す。
・・・恐かった。とても恐かった。
気がつけば、重なった唇を浴衣の袖で何度も拭っていた。
その夜、若旦那様は部屋には戻って来なかった――。
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