第11話 木漏れ日


 縁側から中庭に下りると、昨夜降った雨で土がまだ柔らかい。湿った松の木が枝を広げ、先端の雨粒がぽたりと落ちた。


「あった・・・!この池だわ」


 欄干から覗き込むけれど、金色の鯉の姿はなかった。

 もしかしたら欄干の下からなら見えるかもしれないわ。

 私は欄干を下りた。あの頃に戻ったかのよう、足取りは軽かった。池の周りに苔が生えているが、構わずに覗き込んだ。けれど、やっぱり金色の鯉はいなかった。


 水面に自分の姿が映った。今にも泣き出しそうな顔をしているのに、涙を流すことができない。まだ妖に近いからだろうか・・・。

 水面に手を伸ばした。哀れな自分を救ってあげたくて――。


「おい、お前。そんなに覗き込んでいては危ないだろう」


 突然の声に驚き足を滑らせた。


「キャッ!」

「おいっ」


 一瞬、ふわりと身体が軽くなると、落ちかかった身体を支えられていた。

 振り返ると紫哭様の姿があった。眉間に皺をよせて、こちらを睨んでいる。梅雨の合間の晴れた、爽やかな日も漆黒の着物だった。


「しっ紫哭様・・・!?」

「落ちたらどうする。数日の雨で水嵩も増している」

「す、すみません。気をつけます」


 驚いた・・・。以前、落ちそうになったとき、若旦那様にも全く同じことを言われた。

 紫哭様が、また手を差し伸べてくれた。廊下で転んだときと同じように・・・。池の周りは滑りやすくなっているからだろう。


「ありがとうございます」

「・・・なにか、あったのか?」

「え?」


 真直ぐに落ちてくる瞳に、心の内側を暴かれそうだった。

 ・・・昨日の若旦那様と雪華さんのことを誰に相談すればいいのか。近頃、若旦那様のお帰りが遅いのは本当に仕事だけなのか。


「・・・私はここに居て、いいのでしょうか」

「・・・?」

「いっいえ。なんでもありません。また、お店のお手伝いに伺いますね」


 手を離そうとすると、紫哭様がその手を握り直した。


「紫哭様?」

「ここに居たくない理由でもあるのか」


 もし、紫哭様があのクスノキで会った青年だったのなら。どこにも吐くことのできない、黒く淀む胸の内を明かせていたかもしれない・・・。自分が妖ということに引け目を感じずにすんだのに。

 でも、紫哭様は覚えていないと言った・・・。


「私は若旦那様に隠していることがあります。若旦那様にも、なにか秘密にしたことがあるようで・・・それなのに、夫婦になろうとしている。これで本当にいいのか、どうすればいいのかわからなくて」

「・・・フッ、そんなの誰にだって一つや二つあるだろう。それが人ってもんだ」

「人というのはそういうものなのですか・・・?」

「夫婦になるからって、洗いざらい曝け出せるんなら苦労はしねーだろ」


 少しだけ肩の力が抜けると、紫哭様の手が離れて行った。煙管に火を付けた。ふぅと吐いた息が水色の空に溶けていく。

 その端整な横顔と今日も付けている赤い耳飾り。やっぱり見覚えがある。でもそれはクスノキのあの青年よりも、もっと前から――。


「っとジジィに用があったんだったな。じゃあな」


 紫哭様は、そのまま吉右衛門様の部屋の方へ歩いて行った。


 欄干の下からゆらゆらと金色の鯉が泳いでいた。やっと見つけることができたのに、私は紫哭様の背中を追い続けていた。

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