第8話 不倶戴天

 私が生まれ育った山は、人里を離れ更に奥山にある。勾配の厳しい山をいくつか登ると、それはそれは美しい湖があった。

 時折、人が迷い込んでくると帰り道を教えていた。すると数日後には山の麓に、果物や綺麗な石など、お礼を持ってきてくれるのである。


「八千、今日も町に行くのか?気をつけろよ」

「大丈夫よ。お母様と一緒だもの」

「お土産楽しみにしてるぞ!」


 人里は恐いところだと、妖たちは口々に言っていた。妖を良く思っていない人間が、非道な行いをしていると。

 人里に下りるなんて妖の恥だと、陰口を言われていることも薄々知っていた。

 それでも里に下りて、人と関わり合い、豊かな生活を見ることで、憧れを抱くようになっていた。そういった族(ヤカラ)は極一部に過ぎないと見て見ぬふりをしていた――。


 あれは里に帰る途中だった。お母様が神社にお供え物をするからと通りで待っていた。

 その日は、若旦那様と一日を過ごし気持ちも高揚していた。沈んでいく夕暮れをぼんやりと眺めていると、外れの方でなにやら人だかりができていた。ざわざわと集まる人の群れ。紙芝居か人形劇の見世物が始まったのかもしれない。私は軽い気持ちで、その群れに入って行った。


「ねぇ・・・なにこの匂い」

「ちょっとやだ!あんなの吊り下げてどうするつもり」

「それにしても臭いわね。獣臭い」


 人々は大きなクスノキを見上げていた。近づいてみると、強烈な異臭が鼻を刺した。周りはその異臭を遮るように着物で鼻を覆っている。

 人の肩越しに見えたのは、焼け焦げて炭のように真黒になった、無残な妖の姿だった。熱く咽るような空気が漂い異臭を広げていた。


「また長者が見せしめにってやったらしいよ。畑を荒らしに来たって。惨い(ムゴイ)ことするね」

「仲間が来るかもしれないからって、なにもあんなところに吊るさなくてもねぇ。臭うわよ」

「長者様にゃ誰も逆らえんって」


 胸から逆流してくる異物感に口を押えた。震え上がる恐怖に、引き返そうとするが、足が竦み動かない。

 群がる人は、訝しそうに目の前の残虐を淡々と見ているだけ。日常の一部として受け止めていた。それは例えば、急な雨のせいで洗濯物が濡れてしまった、というくらいの軽薄な憂鬱さだった。

 これが一部の人の仕業にせよ、それを傍観する人も同じではないだろうか・・・。


 そのとき、初めて人に嫁ぐことが恐くなった――。


 酷く乾いた口にごくんと唾を飲み込んだ。今なら見なかったことにできる。足枷を付けられたように重い足をゆっくりと後ろに引いた。

 けれど・・・私は、姿形は人に寄せていても、紛れもなく妖。吊るされた妖を放っておいていいのか。でも、降ろしたら私も同じようにされはしないがろうか・・・。

 人の群れの中で、自分の心臓の音だけ聞こえる。べっとりと首筋に汗が滲み、おくれ毛がうなじにはりついている。口で息をしなければ、呼吸ができなかった。

 引いた足を前に出したときだった。背後から人を掻き分け、クスノキに近づいていく人影があった。


「おっおい・・・!!ちょっとアンタ!」

「なにするつもりだい!?」


 現れたのは一人の青年だった。華奢な身体に漆黒の着物を着ている。その細い腕には刀が握られていた。鞘から刀を抜くと、夕闇に反射し橙色に染まっていた。その矛先が、変わり果てた妖に向かっている。村人の静止を押し切りながら刀を振った。

 いやっ・・・!

 ――思わず両手で顔を覆い目を固く閉じた。


「こんなことしてただじゃすまないぞ!」

「どこの者だお前!」

「オレたちゃ関係ねーからな!」


 どさっと鈍い音に、恐る恐る目を開けると、吊るされた妖の縄が断ち斬られていた。クスノキの下に横たわる二体の妖。風が吹く度に、その灰が舞っていく。


「好きにしろ。こんなことをする外道なんざ、生い先長くはねぇだろうからな」


 青年の鋭い眼光が、町人を射抜くように睨みつける。町人はチッと唾を吐くように舌打ちを鳴らすと、その場を後にした。群がっていた町人も、一人、二人とクスノキから離れて行く。


「・・・」


 立ち尽くす影が伸びていく。気が付けば、青年と私だけになっていた。


「熱かったでしょうに・・・こんな、こんな姿になって」


 傍らに膝をつき、祈るように目を閉じた。


 その後すぐにお母様がきて私を連れ出した。あの方は誰だったのか、なぜ助けてくれたのかさえ分からないまま。お母様に手をひかれながら振り返ると、一度だけ目が合った気がした。その耳元で赤い総の耳飾りが風に揺れている。


――私は、今でもあのクスノキの光景を今でも忘れることができない。

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