第3話 春時雨
鉛色の重たい空から雨が降り始め庭園を濡らしていく。香り立つ土の匂いを濃く感じる一方で、時折聞こえてくる鹿威しの音はここが人の住かだと印象付けた。
「長旅ご苦労だったな。八千殿」
「お久しぶりでございます。吉右衛門様」
吉右衛門様は白髪が交じった太く剛毛な眉を、ハの字にして侘しそうな顔を見せた。
「百音(モネ)殿の件、本当に残念だった・・・最後に会いたかったものだ。いつの時代になっても、流行り病とは恐ろしい」
「はい・・・。生前、母も吉右衛門様のことを気にかけおりました。『契り』を半ばにして心許ないと・・・」
お茶からはふわりと白く滲んだ湯気が立ち込めている。吉右衛門様は口にしかけた湯呑の手を止めた。
「そんなことはない!百音殿は立派に務めを果たしてくれた」
慌てて茶托に戻された湯呑から、お茶が飛び散り畳に小さなシミができていた。
「この家も名誉も、商売も全て上手くいったのは百音殿あってのこと。・・・そしてワシの願いを叶えるべく、こうして約束通り八千殿を寄越してくれたのだ」
お茶をすすめられ、湯呑に触れた。微かに冷えていた指先がじんわりと温まっていく。
吉右衛門様は仕切りに頷くと、目を細め似合わない高い声を出した。
「いやぁ~それにしても八千殿、綺麗になったなぁ。紅色の瞳など百音殿そっくりだ。はて幾つになった?」
「十と九にございます」
「そうかそうか、婚儀の約束では二十歳だったが、まぁいいだろう。ンム、・・・蒼蜀には会ったか?」
「はい。先ほどお会いしました。お店が忙しいそうで、戻られました」
コンッと竹と石がぶつかる音が庭園に響いた。開いている障子から、鹿威しが上がっていくのが見えた。
――先ほどの若旦那様の言葉が、この鉛色の雲のように私の胸にも広がっていた。
「・・・あの、若旦那様には本当のことを、話した方が良いのではないでしょうか。せめて夫婦になる前に」
「八千殿が鶴人の妖であることをか?」
「はい・・・」
「ワシ以外誰も知らんのだ。心配することはないだろう」
「で、ですが」
「言ってどうする。例え・・・いや、そんなことは決してないが。蒼蜀が考えを改めたいと言ったとしても、二人の婚儀は決まっていること。故意に波風を立てるのはどうかと思う」
「・・・」
「今は人と妖が夫婦になるのも珍しくはない。町にもたくさんいると聞く。八千殿が心配することはなにもない」
吉右衛門様は再び湯呑に手を伸ばし、ずずぅと音を立ててお茶を口に含んだ。
鼻腔の奥に焼け焦げた臭いが広がった・・・。焦げた臭いは、私とクスノキの出来事を結びつける。蘇りかけた光景に蓋をした。
「その・・・夫婦になるからこそ若旦那様には――」
「蒼蜀には決して言ってはならん!言ったときは八千殿が『契り』を破ったことになるっ!!」
いつもは穏やかに話す吉右衛門様が語気を荒らげた。そして念を押すように続ける。
「そうなれば、どうなるか・・・・。わかっているはずであろう」
「・・・申し訳ございません。要らぬ心配を」
「八千殿のような美しい娘と結ばれるんだ。蒼蜀は幸せに違いない!二人が子を成せば、一族は更に安泰となり、ワシと百音殿の契りは果たされる。ガハハハッ」
お茶を飲もうとすると、既に空だったのか、吉右衛門様は女中を大声で呼び寄せた。
また、鹿威しがコンッと庭園に響いた。耳の奥で、その音が響き続けている。
□□□
自部屋に戻る途中、あの欄間の部屋を見つけた。無意識に足が部屋への中に向かっていた。
「やっぱり・・・」
これはお祖母様と壷玖螺家先代の話しになっているんだわ。
欄間は、隣の客間と二間続きで並んでいた。今は亡きその存在が、ここに刻まれている・・・。
ことの始まりは、壷玖螺家の当主がお祖母様を助けたことにあった。お礼として、当主に望みを尋ねると『その美しい羽を一枚だけ欲しい』と告げた。羽一枚と傷の介抱では、些か分が悪いと思ったお祖母様は、他に何かないかと続けた『では子孫代々食に困らぬようにして欲しい』
お祖母様その願いを聞き届け、自らの羽を織り交ぜた反物を送った。織った反物は、この世の物で一番美しいと忽ち称賛された。
以来、壷玖螺家は呉服屋を営むようになり、今は名家豪商と謳われるようになった――。
「あら?こんなところで、なにをしているんですか?」
廊下の方へ振り返ると、若旦那様と話していた、あの女性が立っていた。
つい欄間に夢中になってしまった。人の気配に気がつかないなんて・・・。
「ふふふ。驚かせてしまったのならごめんなさい」
「あなたは・・・」
「ここで働いてる雪華です。よろしくお願いします」
雪華さんは、紅のついた唇を上げながら近づいて来た。指先から頭まで舐めるような、ねっとりとした視線を私に向けている。その居心地の悪さに、視線を逸らした。それでも、私へと視線を送り続けてくる。
「綺麗ね、貴方。本当に綺麗・・・。蒼蜀様が惚れ込むのも無理ないわ」
細い腕が宙に上がると、私の頬に触れた。外の雨のせいだろうか、指先がとても冷たく湿っぽい。すぅーと下降していく指先に、全身に鳥肌が立った。
「透き通るように白い、この肌。漆黒の艶やかな髪に映える紅色の瞳。・・・まるで、妖みたいね」
外の雨音に紛れてしまいそうなほど、か細い声だった。
人は妖と違い、その区別がつきにくいと聞いている。この人の目は、私をどう捉えているのだろうか――。
私は一歩、二歩と後退り客間を後にした。関わってはいけない、そう本能が言っている。足早に部屋から離れているのに、背後からあの這うような視線が追ってきているようで恐かった。
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