春の教室 ― 教師と生徒が交わした小さな記憶 ―

@potitent

プロローグ

春の風が、教室の窓辺をそっと撫でる。

古びた木の机に刻まれた傷、散らばった教材の端に残る鉛筆の跡、壁に貼られた時間割。

ここは、誰かの夢が生まれ、誰かの未来が描かれる場所。

そして、誰かの心が、静かに揺れる場所。紘一は、夕暮れの個別指導ブースに一人立つ。

窓の外では、桜の花びらが舞い、春の気配が街を柔らかく包んでいる。

彼の手には、使い込まれた教案。

ページの端は折れ曲がり、そこには無数の生徒たちの笑顔や涙が刻まれている。

けれど、その中でも、ひとつの笑顔が、ことさら鮮やかに胸に浮かぶ。

彼女の名は、美幸。

真剣な眼差しでノートに向かい、鉛筆の音を響かせる少女。

彼女がこの小さなブースに初めて足を踏み入れたあの日から、

紘一の心には、知らず知らずのうちに小さな灯がともっていた。

十年前、愛する妻を失ったとき、

紘一は心を閉ざし、ただ日々の指導に身を委ねてきた。

もう二度と、誰かを愛することはあるまいと、そう信じて。

だが、春の教室に現れた彼女の姿は、凍りついた心を、静かに、けれど確かに溶かし始める。

これは、ひとつの季節の物語。

教師と生徒として出会った二人が、

春の光の中で織りなす、切なく、温かい記憶。

そして、別れの先に見つける、それぞれの春。教室の窓辺で、風がカーテンを揺らす。

まるで、始まりを告げるように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る