第4話

「綾。一緒に海に行かない?」

「行かない」

「あら、どうして?」

「…時計見て。ほら、短針が3を指してるでしょ。あれは午前3時って言ってね、夜中ってことだよ」

「ええそうね。行きましょう」

「マッッジで帰れよ……」


綾は寝返りと舌打ちを同時にこなし、千代子に背を向けた。

彼女は低血圧なのだ。よって本当に寝起きが悪い。

枕で頭を塞いで「てかなんで家入れてんの」と寝ぼけた声で言う。


「少し前、綾のお母さんに合鍵をもらったの。

寝汚いから起こしてあげて、と仰っていたわ」

「起こすとかそういう時間じゃ無いし…そもそも今夏休みだし。つまり休日。じゃ、おやすみ」

「ほら行きましょう」

「あーーーっお前お前お前覚えてろよ!!最高裁まで持ってってやる!」

結局はベッドからビタン!と引きずり下ろされた。



「なんでこんなことに…あ、そこの道左ね!」

綾は大きくため息をつきながら、水色の自転車をダラダラ漕いだ。

その前方で千代子が気持ちよさそうに赤い自転車を走らせている。

結局彼女に負けた綾は、自転車で海まで向かうことにした。始発電車は5時台だったからだ。


海沿いの道路を駆け抜ける。早いこともあって車はほとんど居ない。

綾はスマホで夏っぽいJPOPを適当に流している。

夜明け前。青紫色の薄暗い空の下、ぬるい潮風が髪とTシャツを膨らませた。

ふと前を見れば、千代子の艶やかな黒髪が旗みたいにヒラヒラと靡いている。白いレースワンピースが象徴的だった。


「朝ごはんどーすんのっ?」

「大丈夫よ!2人分塩おにぎり持ってきたの!」


少し距離があるのでお互いに声を張って話す。


「え、私のも?愛してる!」

「それ真に受けられるからやめなさい」

「急に真顔になるのやめて」



着いた頃には水平線は赤らみ始めていた。

ざざあ、ざざあ、と泡立った白波が規則的に満ち引きしている。それ以外の音は無い。

2人以外の人は居ないので、静かだった。

海の香りがする。小さなカニが砂上を横切っていた。


「で、何すんの?私何も持ってきてないけど」

綾は着の身着のまま連れ出された。

そのため黒い体育祭Tシャツに短パン、足にはサンダルというラフな格好に、持ち物はスマホだけ。

砂浜に停めた自転車に横座りをして、長い脚をゆったりとパタパタ振っていた。如何にも手持ち無沙汰である。


千代子は「海水浴」と簡単に言った。

そして靴とソックスを脱ぎ、揃えてから。

海に向かって真っ直ぐ歩いていった。


白く砕けた波の中にザブザブと何の躊躇いも無く入っていくものだから、綾はすっかりボーッとそれを見ていた。

そして千代子の膝が完全に浸かった辺りでやっと、「は?」と素っ頓狂な声を出して、慌てて立ち上がる。

「え。う、うわあ入水自殺だ…!」

「違うわよ、綾も入りましょうよ。涼しいのよ」

「えっ、あ、ちょっ待って待って待ってタイム!引っ張るな!」


千代子に手を引っ張られる。

ざばん、と体勢を崩した綾は浅瀬に座り込んだ。水中で砂がブワリと舞って、体にまとわりつく。

綾はものすごく嫌そうな顔をして「……濡れた」と低い声で言う。

「濡れたわね」

「このまま家帰んのマジ無理…ふざけんな……」

「タオル2枚持ってきてるわ」

「愛してる」

「だからそれ勘違いされるからやめなさい」


綾は立ち上がり、手を振って砂を落とした。

どうせ入ったなら、と思って足をパチャパチャしてみる。確かにひんやりしていて気持ちいい。


「にしても…こんな時間に出かけるなんて、あの人がよく許可したね」

「貝殻拾ってくるって言ったの。後で探さなきゃ」

「一緒に探そ。……ねえ、千鶴さんって貝殻好きだった?」

「好きだったわよ。海も貝殻も」

「そっか」

千代子は海の中に体育座りをする。

彼女の白い横顔が朝日で赤く照らされた。

太陽の色を吸い込んでいるみたいで美しかった。


「私、お母さんもお父さんも大好きだったのよ」

「うん」

「でももう…分からなくなっちゃった。何が好きで何が嫌いか」

「……」

「私、死ぬまでにもう一度海に行ってみたかったの。大好きな人と」

「…うん」

「ありがとう、一緒に来てくれて」


千代子はあの日と同じ、片目を細めた笑顔でそう言った。

その言葉を否定しなかったことを、綾はずっと後悔している。





8月24日、夕方。

夏休みも終わりかけの日、千代子から電話がかかってきた。

綾は遊びの誘いかな、と思ってちょっとウキウキしながらも電話を取った。


「もしもし?珍しいね、電話かけてくるなんて」

『……』

「…もしもし?」


ガアン!と何か重い物を落とす音が聞こえた。

人生が壊れる音によく似ていた。


「わ、なに。大丈夫?」

『……お父さん、殺しちゃった』

声は震えていた。


「…え」

『あのね。あ、綾ちゃんがくれたイヤリング、取り上げてこ、壊されそうで。あの、ブツンってなって……灰皿が重かったのかしら、気づいたらお父さん動かなくなって』


頭が真っ白になった。ゾワッと鳥肌が立つ。

……殺した?殺すって、あの殺す?殺人?千代子が?

嘘だ。そんなこと、有り得るはずが。

夢か冗談であってくれ。


「え、いやウソでしょ?は?こ、殺した…?」

『どうしよう。私、私もうお父さんしか居ないのに。ひとりになっちゃう』

「……落ち着け!私が居るでしょ!ほら、ゆっくり深呼吸!」


咄嗟に鋭い声を出す。まず千代子を冷静にさせなければ、とその実バクバク動く心臓を抱えながら考えた。スマホを持つ手は震えていた。

電話越しに千代子がヒュウヒュウと細く深呼吸するのが聞こえる。


「...と、とりあえず、本当に死んだの?息は?」

『……。無い。目が開いたまま動かないの』

「じゃあ救急は無理か。でも警察だと千代子が...灰皿で叩いたの?血はついてる?」

『う、うん。頭の後ろをゴンって。血は端っこにちょっとだけ』

「道具使っちゃったか……」


クソ、と髪をグシャグシャかき回す。

血がついたらルミノール反応が出る、と化学で習った。

灰皿を使った時点で、事故死に見せかけるのはあまりにもハイリスク。

死体を調べられたら、確実に詰みだ。

でも隠したり放置すれば、見つかる可能性は跳ね上がる。


隠蔽──警察にバレる前に死体を隠蔽する?海に捨てればどうにか…?

いや、現実的に考えて難しい上に、死体が見つかれば私も共犯だ。

でも千代子を捕まらせるわけには……。


「待って。ちょっと待ってね。私がどうにか…どうにかなる方法を、考えるから、だから」


だから、の続きは言えなかった。言ってしまえばそれが現実になってしまう気がして。

そんな綾に、千代子は幾分か落ち着いた声色で尋ねる。


『……ねえ綾。落ち着くまで、一緒にお話してくれる?』

「え?あ、ああ。うん。もちろん、千代子がそれで落ち着くなら」


『ええと…そうだ。初対面、覚えてる?

もう4ヶ月経ったのね。学校を案内してくれたわよね、まだ綾がツンツンしてた頃よ』

「…もう、4ヶ月前か。あっという間だね」

『しゃぼん玉、一緒にやってくれたの本当に嬉しかったのよ。結局何回やったのかしら』

「5回。3回目から私がでっかいしゃぼん玉作れるやつ持ち込み出した」


心臓のバクバクがゆっくり収まっていく。

出会った頃、濁った目をした千代子を思い出す。

あの時はまだ笑顔を作っていたことに気づいたのは、つい最近だ。


『あれから一緒にお昼を食べるようになったわよね。私はブチ猫ちゃんに嫌われちゃってたけれど』

「ああ、めっちゃ避けられてたよね」


『帰り道に私だけ違う電車に乗っちゃった時はビックリした。綾が見たこともない顔で焦ってたもの』

「目の前でドア閉まった時には『終わった』って思ったよ…」


『家に突然押しかけたのに心配してくれたの、嬉しかった。カレーもすごく美味しかったわ、おかわりしちゃったもの』

「アニメくらい大盛りにしたもんね…。……?」


あれ。と綾は思った。

何か、違和感がある。千代子の家で感じたような、妙な不自然さが。

綾は少し悩んでから…「アッ」と目を見開いた。

そうだ、違和感の原因はそれか。

さっきから話題の振り方が明らかにおかしい。

千代子の話はまるで、死ぬ間際の人間が幸せな思い出の整理をしているみたいなのだ。


「ねえ、千代子。まさか」

『家に来た時は申し訳なかったわね。お父さんと仲良く話せてたからちょっと安心しちゃってたの』

「千代子、ちょっと話を……」

『嬉しかった、本当に嬉しかったの。あの時くれたイヤリング、ずっと大切に持ってるのよ』

「ウソ、待って。やだ、やめてよ」


やっぱりそうだ。予感が的中してしまった。

ザアっと頭から血の気が引く。

千代子は、このまま自殺するつもりだ。

それもすぐに。この電話を切れば、千代子は何の躊躇いも無く自分の人生をちょきんと切って、終わらせてしまうだろう。


「千代子!ねえ、千代子!」

『……バレちゃった?』

あーあ。やっぱり綾には敵わないわね、と実にあっさりとした、千代子の家での時と同じような声で言う。


警察?救急?電話をかけるためには千代子との通話を切らなければいけない。しかし通話を切ったら千代子が死んでしまう。


「なんで、だってまだ、どうにか」

『優しいのね。私貴女のそういうところ大好き』


子供を寝かしつけるみたいに優しくて、蕩けるように穏やかな声だった。

綾はそれを「死を受け入れた人間の声」だと解した。


「千代子が居なくなるのやだよ、私が一緒に逃げるから、死体も隠そう、手伝うから」

口も頭も上手く回らず、言っていることはめちゃくちゃだった。


『ダメよ』

「なんで」

『だって綾には大切なものが沢山あるでしょう?置いて行っちゃダメよ』

「……」


それは千代子からの静かな拒絶だった。

喉まで出かかった「違う」は、声にならないまま消えてしまった。

それがとてつもなく悔しくて、悲しくて顔を歪めた。


『海に貴女と行けて良かった。お母さんが死ぬ前、最後に遊びに行ったのが海なの』

「……」

『綾に出逢えて本当に良かった。私、貴女と過ごせた間、ずっと幸せだったわ。

……好き、大好き。私の神様。ずっと、今も大好きよ』


その言葉を聞いて、綾は口の端をわずかに上げる。

「…千代子」

『なあに?』

「私と居て楽しかった?」

『ええ』

「幸せだった?」

『もちろん』

「…私は、心の支えになれた?」

『言わずとも』

「……そっか」


なら、良かった。とポツリと呟く。

笑ったのは安堵か諦めか。自分にも分からなかった。

もう何を言っても止められないなら、せめて穏やかに別れたかった。


長く話し過ぎちゃった、と千代子が笑う。

『それじゃ、さよなら』

「…またねじゃないんだ」

『ふふ、またねが良かった?』

「ううん、いいや」


『……。またね、綾。次はもっと違う出会い方で、友達になりましょうね』

「もちろん。…またね」


ツー、ツー、ツー。

電話が切れた。


終わったんだ、と綾は疲弊した脳でぼんやり考えた。

手先はまだ震えていて、頭は真っ白。

思考が上手く繋がらない。


ええと……そうだ、早く救急に電話しなきゃ。

熱に浮かされたようにボーッとしたまま、119番に電話をかけた。


『119番です。火事ですか?救急ですか?』

「…救急です。40代男性が頭を打って…ええと、意識不明、10代女性が……首を吊ってる、はずです。

はい、住所は──」


綾は一瞬話すのを止めて、窓の外を見上げた。

あ、千代子が死んでしまった、と思った。

だって、千代子の影が見えた。

ワンピースを着た影は楽しげにひらりと揺れて一回転、夕暮れの赤い空に溶けていった。


それを見て初めて、もう二度と千代子には会えないことに気づいた。

グッと目を細める。俯くと涙が溢れて、ボタボタ床に落ちた。


神様そっくりの女の子は、本当に神様になってしまった。


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