第2話
「……とりあえず、入りなよ」
綾は心配そうな顔で言った。
千代子はそれに無表情でコクンと頷く。
千代子が来てから2ヶ月後。
しゃぼん玉の日から何となく2人はセットで行動するようになり、毎日一緒に帰るくらいには仲良くなった。
その関係性は紛れもなく「友達」と名前がつく筈だが、綾は「く、腐れ縁だから」と意地を張っている。
そんな中、雨の夜のこと。
突然千代子が家に来た。
傘もささず、制服のままで俯いていた。
酷い顔色だ。濡れた黒髪が束になって、病的に青白い肌に張り付いている。
そんな千代子がインターホン画面に写ったので、宅急便かと思って出た綾は「マ゙ッ…!」と滑稽な声で叫び、急いで玄関を開けた。
そして今に至る、というわけだ。
「ど、どしたの」
「…」
「……とりあえず入りなよ。バスタオル持ってくる」
綾は千代子の手を取り、「ここ座ってて」と庭が見える大きな窓の前、リビングの白いソファに座らせる。
綾の家はあまりに広く、迷子みたいな顔をした彼女が床に座ろうとしていたからである。
静かだ。カチ、カチ、カチ、とリビングの時計の秒針がいつもより鮮明に耳に入る。
モコモコの白タオルで包まれた千代子は手負いの獣のように全身を強ばらせ、しかし何も喋ろうとしなかった。
淀んだ目を伏せて黙っている。
濡れて黒々とした睫毛が、暖色の照明で金色に光る。
彼女の顔の輪郭に沿ってツイ、と雫が落ちた。
その様子は初対面の印象とは程遠く、随分と人間臭く見えた。
綾はたじろぎつつも(本当に綺麗な顔してるな)と場違いにも思った。
座った千代子の前にしゃがみ、意識的に優しく抑揚の少ない声で言う。
「頷くか首を振るかでいいよ。家出?」
千代子はコクリと頷く。
「今日は帰りたくない?」
千代子はさっきよりも小さく頷いた。
「オッケー。泊まる?明日土曜だし」
「…いいの?」
「もちろん。冷えたでしょ、お風呂入ってきな。
あ、着替え…下着はとりあえず私の新しいやつ着て。服は大体サイズ一緒だよね」
「本当にいいの?迷惑でしょう。いきなり転がり込んだ女なんて、置いても何一つ良いことなんてないわよ。寝首を掻かれるかも」
「……」
ジメジメジメジメ今更何を!いつもの態度はどうした!
綾は発作的に頭に血が上り、脳がグツグツ沸騰する感覚がした。
彼女は千代子の肘を掴んで軽く引っ張る。
ヘーゼル色の瞳がキラッと輝く。
そして乱暴に言った。
「何言ってんの。友達じゃん」
「え」
「ほらお風呂こっち」
目を見開いてフリーズした千代子をペイッ!と風呂に突っ込むと、彼女は母に電話をかけた。
「もしもし?あのさ、」
先程まで千代子が居たソファに体育座りをして、赤ちゃんアザラシのふわふわぬいぐるみを抱えてダラダラ説明をした。
「うん、うん。ごめんね急に、ありがとう。はーい気をつけて、切るね」
無事に許可をもぎ取り電話を切った彼女は、ソファに体を雑に投げ出した。
そして仰向けになってスマホをいじる。
父親からの『チョコケーキ食べちゃってごめんね💦』という通知を真顔でシュッとスワイプして消し、インスタをぼんやり眺めた。
それからしばらく黙り…ふと先程千代子に言った言葉を思い出した。
目を隠すように手の甲を当てて、呻くみたいに呟く。
「友達って言っちゃったよ……」
初対面から2ヶ月。
「友達」とはこうも雑に作っていいのか。
綾にはこういう類の正解は分からないし、学校の勉強みたいに解説も丸つけも無いけれど。
まあ、合ってればいいな…と当てずっぽうに思った。
遠慮なのか性分なのか、千代子は10分ほどで出てきた。綾から借りた紺色の半袖ワンピースを着ている。
病人じみた顔色は大分マシになったので、綾はホッとする。
これで青白いままだったらどうしようと思っていたからだ。
千代子はスン、と鼻を動かしてから綾に近づいてきた。カレーの濃厚で甘いスパイスの香りがリビングに満ちている。
「いい匂いね」
「うん、今日カレー。好き?」
「辛口?」
「甘口。私とマ…母さん甘党だから」
「ふうん…良きにはからえ」
「居候の分際で無礼な。追い出していい?」
「ふふ。やぁだ、追い出さないで頂戴な」
「じゃあ一発芸やって」
「それは嫌」
「返答早っ」
カレーの鍋をかき混ぜて時々チャツネを入れたり、炊飯器のホカホカご飯を混ぜたりするのを、千代子は家猫のようにちょっかいをかけつつ観察していた。
いつもの調子が戻ってきたらしい。
黙っていれば、風の音と雨粒が屋根に当たってパタパタ弾ける音が聞こえる。
天気予報によれば翌朝には止むそうだ。
晴れたら千代子の服を乾かしてあげよう、と綾は鍋を混ぜながら思った。
「夕餉は自分で作っているの?」
「夕餉…ああご飯ね。ある程度楽なのをたまに作るくらい」
「へえ。味見、手伝いましょうか?」
「私がやりまーす。あ、こらお玉返…力強っ!え、何?」
「……美味しいわね」
「知ってるんだわそんなこと」
戯れていると母が帰ってきた。
「ただいま、千代子ちゃんいらっしゃい」
「こんばんは。夜分に押しかけてしまってごめんなさい」
「おかえり、パパ残業?」
「うん。帰ってくるの夜中だって」
「いえ〜いザマミローっ」
母が帰ってきた途端、綾はまるきりクソガキの顔になる。
ライブタオルの要領でエプロンをぶん回す彼女を、千代子がチョイとつついた。
「綾、お父さんが嫌いなの?」
「いや別に?昨日取っておいたチョコケーキ食べられただけ」
「ごめんね千代子ちゃん。この子外じゃクールぶってるのに調子に乗ると子供っぽくて」
「未成年だよ私は」
「いいえ。嫌いじゃないのなら、良かった」
「…?」
綾は首を傾げる。
一体全体どうして父親の好き嫌いに拘るのか。
やっぱり親と喧嘩して出てきたのかも。
高校の家出の原因なんて大体が親との諍いだろうし、多分そうだ…と千代子に銀のスプーンを渡しながら納得した。
「千代子ちゃんどれくらい食べる?」
「普通で大丈夫よ」
「大盛りだって〜」
「一瞬で捏造されたわね」
「いやお腹すいてるでしょ。千代子よく食べるじゃん」
「……いいの?」
「どうとでも」
カッコつけた結果、綾は鍋を見て「明日のお昼分が…」と悔やむことになる。
千代子はカレーを本当に嬉しそうにニコニコ食べるので、ついお代わりをアニメ盛りのようによそってしまったのだ。
◆
「私、チョコミントの日と誕生日一緒なんだよね」
「いつなの?」
「2月19日。祝福を感じる」
「誕生日プレゼントは何が良いかしら」
「話逸らしたな…今はサカバンバスピスのぬいぐるみが欲しい」
「綾ってぬいぐるみ好きよね。特に海洋生物」
「うん。なんかね、ずっと沼ってる」
生憎の曇天となった翌日の午前中。
2人は人気の無い公園でダラダラしていた。
綾の手にはチョコミントアイス、千代子の手にはソーダアイスがそれぞれ握られている。
綾は深いグリーンのパーカーに白い細身のジーンズ、黒いキャップを被り両耳に孔雀の羽のイヤリングを付けている。
ピアスは耳に穴を開けるのが怖くてまだデビューできていない。
千代子の隣に座り、少し俯いてスマホを爪でカチカチいじっているところだけ見れば、美少年そのものだった。
植え込みの紫陽花から雨粒がポタポタ落ちる。
千代子が小さく欠伸をした。
ここの公園は千代子の最寄り駅の近くにある。
今日、綾は千代子の家に着いていくつもりでここまで来た…のだが。
綾は突然方向転換をすると
「チョコミント食べたい。千代子も好きなの選びな」とコンビニにスタスタ向かい、本当に2人分のアイスを買ってしまった。
そして公園のベンチを陣取って「沁みるぅ…」と嬉しそうにアイスを頬張りだした。彼女は千代子と過ごす時間が増えるうちに行動力のバケモノみたいになっていた。
千代子は目を大きくしてパチパチしてから、特に何も指摘せずアイスを少し齧った。
彼女の髪は高めの位置で1本に結ばれている。
湿気が鬱陶しくて、綾にもらったゴムで適当に結んだものだ。
「やば、ちょっと溶けてきた」
「下から食べれば?」
「そーする…」
白っぽい光が灰色の雲の隙間から差した。
急に目に入った光を眩しく思いつつ、
「何時になったら行くの?」と千代子が問う。
綾はアイスを下からちょっとずつ食べながら
「10時〜」と力を抜いた声を出した。
彼女の下睫毛がキラキラ光って、クッキリとした高級な貌を際立たせた。
「あ、今の顔綺麗。そのまま止まって頂戴」
「うわ出た。千代子って毎回褒めのタイミング謎だよね」
「光がキラキラ当たって神様みたいだったから…」
「まあ私フランス旅行で大聖堂行ったら信者の人達に泣きながら手合わせられたことあるからね」
「何それ詳しく聞かせて」
「白いワンピース着てたから余計ヤバかった。てか千代子だってそんな感じのことあるでしょ」
「着物の時に神社に行ったら、神主さんに何かしらの一柱と勘違いされたことなら」
「最高。…あ、もう10時」
千代子がスラリと立ち上がる。
「そろそろ行きましょう」
「…行くか〜。ホントに着いてっていいの?」
綾は2人分まとめてアイスの棒をゴミ箱に捨てた。グッと伸びをする。
「構わないわよ…あ、そういえば」
「何?」
「私父子家庭なの。まだ言ってなかったわね」
「ふーん、珍しいね」
「あと家では私のこと千代子って呼ばないで。出来れば千鶴って呼んで頂戴」
「えっタイム怖い怖い怖い。やっぱお宅訪問はもう少し仲良くなってからにしない?」
「じゃあ行きましょ」
「説明!せめて説明を!」
千代子はニッコリ笑った。
「行けば分かるわよ」
その笑みはいつもより僅かに引き攣ってるように見えた。
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