第14話「ルシアの庭」

目の前の景色が、音もなく崩れ落ちた。


廊下だったはずの空間が、沈む水面のように揺らぎ、色も匂いも――絵の具に溶けたように曖昧になる。


レイは即座に杖を構え、隣の気配を探った。


(……いない)


一瞬前まで確かに隣にいたライラの気配が、跡形もなく消えていた。


「……ライラ嬢?」


「殿下……!」


数メートル先、揺らぐ空間の中に彼女の姿が見えた。

駆け寄ろうとするライラの体が、次の瞬間、空間の歪みに吸い込まれるように弾かれる。

その姿は、水のように揺らめいていた。


(空間魔法……いや、これは“領域”か)


レイの視線が悠然と立つ男――ルシアへ向かう。

不敵な笑みを浮かべ、ルシアは芝居がかった一礼をする。


「ここは私の庭です、さあ、第2王子殿。始めましょう」


「ずいぶん手の込んだ“招待”だね」


レイは落ち着いた声で応じ、口の端には冷ややかな笑みを浮かべた。


ルシアは杖を傾け、風の気配を漂わせる。


「面白い。貴方も遊ぶ気になったのですね。しかし、私の庭では手加減は無用――覚悟してください」


「手加減のない相手ほど、魔法の分析材料になる。嬉しい限りだよ」


レイの言葉は穏やかだが、鋭い毒を含む。


空間がさらに歪む。

床の縁、天井の梁、壁の模様――すべてが柔らかな水に沈むように揺らぐ。

空間の中心で、ルシアの瞳が冷たく光った。


「観察する気か……だが、この庭の仕組みを見抜けるとお思いで?」


「見抜けるかどうかは、やってみてから判断するものさ」


レイは杖を軽く振り、空気をピリリと締める。


ルシアが杖を掲げ、風を纏った刃を浮かべる。


「それもそうですね――フェッラーレ・ヴェン風の斬撃!」


鋭く切り裂く風刃が迫る。

レイはわずかに身をひねって回避――しかし次の瞬間、肩を狙う刃が座標をずらしながら襲いかかる。

紙一重で回避し、足元の空間に微かな波紋が残る。


(ただの転送魔法じゃない……座標操作だ)

 

位置を自在に変える――だが完全ではない。

揺れのパターンに微かな“規則”があることを、レイは観察から導き出した。


「なるほど……さすが王子、少しは読めるようで」


初めて苛立ちの色が混ざるルシア。

その瞳に、一瞬、焦燥が垣間見えた。


「まあね……でもまだ半分も見えていない」


レイの笑みは鋭く、毒を含む。


風刃が連続する中、二人の静かな頭脳戦が始まった。

刃の応酬よりも、目に見えぬ“思考の刃”が互いに切りあっていくのだった。


――


【ライラ側空間】


同時刻、ライラは闇の中で魔獣と対峙していた。

黒く濁った体毛に、ぎらつく異様な瞳。数十匹の魔獣が空間の隙間から現れる。


「グルル……ッ!」


唸り声と共に、魔獣たちが跳躍して襲いかかる。


「貴女はそちらの魔獣と遊んでなさい」


空間を通して、ルシアの声が響く。


「……ずいぶんと舐めたことを」


ライラは口元に笑みを浮かべ、静かに呟く。


「“遊び”って言うなら、しかと楽しませてもらおうか……!」


魔力がぶわりと空間に広がり、周囲の空気を歪ませる。

胸の奥が熱く軋み、手足が痺れる。

祈れば祈るほど、魔力は反発し、暴れ出す。


(……あの時って、どの時?)


額から汗が滴り、空気がピリリと張りつめた。

だが、レイの声が空間を越えて届いた。


「ライ……嬢? 聞こえるか?」


(伝達魔法……?)


「ライラ嬢、こちらの声が聞こえるかい?――君にしかできない」


ライラはレイの説明を聞き小さく頷き、微笑む。


「おまかせを、殿下」


青白い魔力が整い、暴走が収まり始める。

足元の魔法陣が淡く光り、空間の流れを安定させた。



――


【密売所2階】


ヴィルゼインは手すりにもたれ、下のフロアで行われる競りを眺め舌打ちをした。

赤く照らされた室内に熱気と喧騒が渦巻き、次々と晒される“商品”に歓声が飛ぶ。


「……まったく、ヴァネッサとルシア、まだ片付かんのか」


苛立ちを隠さず呟くと、背後に黒フードの人物が口を開いた。


「……第ニ王子の手の者にやられたのでは?」


少年のような声だが、深く被ったフードで表情は見えない。


「ハハッ、それはあり得ませぬよ、客人殿」


ヴィルゼインは得意げに笑う。


「あの二人は私が仕入れた商品。幼少から調教した“戦う人形”です。性能は申し分なし」


その目は獲物を値踏みする商人そのもの。


少年は黙ったまま、光のない瞳で見つめる。


「とはいえ、こうして競りが開けるのも――貴殿らの後ろ盾あってこそ。ありがたいことですな」


ヴィルゼインの指先が僅かに震えるのは興奮か、それとも――。


――


【レイ側空間】


再びレイは空間に意識を集中させる。

支柱の座標、揺れのリズム、ルシアの杖の動き。

全てを頭の中で重ね、仮説を立てる。


(風の刃は座標を変えつつ、一定のパターンで放たれている……なら核を押さえれば動きを封じられる)


杖を握り直し、微かに微笑む。


「さて……本番だ」


風刃が迫る音と共に、レイは身を翻し核の位置を正確に把握していた。


「ここ……かな」


杖先から魔力を流し込み、核を操作してみる。

空間の揺れが一瞬止まり、ルシアの動きが鈍る。


「――貴様……!」


苛立つルシアの瞳の奥に、焦燥が垣間見えた。


その瞬間、ライラの魔力が研ぎ澄まされ、青白い光が脈打つ。

風の刃は次々と消え、空間が安定する。


「……いつの間に連携を」


「もう逃げ場はないね」


レイの声は静かで品があり、しかし鋭い毒を含む。


「庭のルールは君が決めた――だが、私たちの理解には敵わなかったってことだ」


ライラの深紅の瞳が光を増し、空間を染めていく。

魔力が世界の時間と空気さえ引き寄せるかのように震える。


風刃は完全に制御下に置かれ、ルシアはその時、初めて後手に回るのだった。


「……まだ、終わっていない……」


ルシアの声が震え、余裕の笑みが消えかける。


レイは杖を下ろさず、ライラの力と連携し状況を掌握していた。


「時間を稼ぐのは、これで終わりだね」


空間は既にライラとレイ、二人の手のひらの中にある。

揺れも、風刃も、すべて計算の上で支配される。


――

 

【ライラ側空間】

 

ライラの深紅の瞳が光を増し、庭全体が静かな決意で包まれた。


「……さあ、参ろうか」


静かな決意を孕んだ声が、庭全体に響いた。


だがその庭の奥底で、ルシアがまだ温めてる"別の作戦"の影が静かにうずいていた。

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