第9話「赤い杯と黒い影」
夜の帳が下りた舞踏会のの庭先を、黒髪の女性がふらりと歩いていた。
片手には赤い液体の入ったワイングラス。足取りはおぼつかなく、風にあおられたように体を揺らす。
――ドンッ。
「うぉ、ちょっとお嬢さん!」
通路の脇で見張りをしていた男に、まるで偶然を装ったようにぶつかり、女はそのまま彼に抱きついた。
男が慌てて腕を引きはがそうとするその瞬間、女が顔を上げる。とろんとした目、艶やかな唇。酔ったような微笑。
「……すみません、少し酔ってしまったようで」
その甘く絡むような声と視線に、見張りの男が思わず目を逸らす。
次の瞬間――女の腕がするりと男の首へと絡みついた。
そして、刹那。
ドサッ。
重たい肉の音が、静かな庭に落ちる。
女は無表情のまま腕をほどき、すっと一歩、後ろに下がった。揺れるグラスの中で、赤い液体が月光に反射する。
「……やるねぇ。まるで別人だな」
物陰からアドニスが姿を現し、口笛を吹いた。
黒髪の女――ティアリは彼の言葉には答えず、先ほどまで腕を絡めていた自分の手を、まるで汚れ物でも払うようにぱっぱっと払う。
「それにしても、よく毒針なんて持ってたねぇ」
アドニスが倒れた男の首元にしゃがみ込み、小さく刺さった針を確認する。
その顔にはいつもの
「二日はまともに動けないはずです。常に持ち歩いていますから。……他にも、いろいろと」
「ひぇー……怖い怖い」
アドニスが肩をすくめ、わざとらしく身震いする。その仕草をティアリは興味なさげに一瞥し、扉へと視線を向けた。
「本当に、この先に子供たちが?」
「ああ、確かだよ。……間違いない」
今度はアドニスの表情が真剣になった。
扉の前に立ち、静かに手をかけて押し開く。音ひとつ立てず、黒い闇がその向こうに広がった。
「――さて、行こうか」
ティアリが、倒れた男を指さした。
アドニスが手を差し伸べるが、ティアリはまるでそれを見なかったかのように無視する。
「そうですね、先を急ぎましょう」
「まったく、つれないお嬢さんだこと……」
ティアリは無駄のない足取りで暗い扉の中へと消えていく。
アドニスは肩をすくめ、苦笑しながらその背中を追った。
――
通路に差し掛かると、空気がひんやり変わった。
普段は冷静なティアリでも思わず肩に力が入る。
壁の影から覗くと、鎧の軋む音がやけに多く響いていた。
数え切れないほどの見張り。息を殺しながらティアリは眉を寄せる。
(……予想以上の数。面倒ね)
「これは……少々、想定外だな」
アドニスも頬をかきながら苦笑する。
いつもの軽口とは違う、真面目な口調で。
「あまりにド派手にやりすぎると、応援を呼ばれるか密売が中止されちまって、現場を押さえ損ねるから厄介なんだよな……」
ぼそりと嘆くアドニスの言葉を遮るように、ティアリが静かに言った。
「……アドニス様。口を、少々塞いでおいてください」
視線を動かすことなく放たれた一言に、アドニスは思わず口を手で覆った。
その横で、ティアリは衣の裾から何かを取り出す。
黒く丸い、小さなボールのような物体――。
「えっ、なにそれ……」
アドニスの問いには答えず、ティアリはその球体を指でつまみ、床にそっと転がす。ころころと転がった先、ボールはちょうど見張りの一人の足元で止まった。
コツン。
「……ん?」と訝しむように男が身をかがめた、その瞬間――
ぷしゅうぅ……っ。
黒い煙がしゅわりと噴き出し、瞬く間にあたりを覆った。
「なんだこれは!?」「敵襲か?!」
混乱の声が飛び交ったのも束の間、バタバタと次々に倒れる音が続く。
ドサッ、ドサッ――。
煙の向こうから静かに歩み寄ったティアリが、感情のない声で告げる。
「……もう大丈夫ですよ」
黒煙が晴れ、床に倒れた複数の男たちの姿が現れる。微かに痙攣してはいるが、すでに戦意も意識もない。
アドニスはその光景を見たまま、ふと視線を彷徨わせた。
「……ったく。ほんと、こういう場所だけは何度来ても慣れねえや」
ぼそりと漏れた呟きに、ティアリが横目で彼を見る。
「慣れていないという割には、手際がいいように見えますが?」
「……まあ、昔ちょっと縁があったからさ。 あんまりいい縁じゃないけど」
アドニスの笑みがふっと途切れ、視線が倒れた男達の向こうに吸い込まれていった。
まるで誰もいないはずの影を見ているかのように。
「それにしても、さっすがティアちゃん〜。これはいったい、どんな道具なのかな?」
アドニスが無理に調子をあげた様子で半ば感心しながら近づいてくる。
「先ほどの毒針を、気化するよう改良しただけです」
ティアリは肩をすくめるように、あっさりと答えた。
「へぇ……。じゃあ名前とかあるの? 道具の」
「名前……ですか?」
「そうそう! 呼びやすい名前とかないと、使いづらくない?」
にこりと笑みを浮かべて覗き込んでくるアドニスに、ティアリは思わず一歩身を引く。視線を宙に漂わせ、考え込むように歩みを進めた。
「……そうですね。では――毒もくもくマシーン、というのはいかがでしょうか」
真剣な表情で言い切るティアリ。
一瞬の沈黙。
「…………ふっ」
アドニスが吹き出すのを堪えきれず、肩を震わせた。
「な、何がおかしいのですか? 毒が“もくもく”と広がるので、非常にわかりやすい名称かと」
ティアリがむすっと眉をひそめる。だがアドニスは口元を押さえながらも、笑いを完全には隠せなかった。
「いや……うん、わかりやすい。わかりやすいんだけどさ……! センスが……っ!」
「せ、センスなど必要ありません。分かりやすさに勝るものはないのですから」
「うんっ……そ、そうだね」
それでもアドニスは笑いを堪えきれず、ティアリに背を向けて肩を震わせ続けている。目尻には涙まで浮かんでいた。
「もうアドニス様がどんな目に遭っていても、毒もくもくマシーンでは助けて差し上げません」
「ご、ごめんねぇティアちゃん!」
ティアリはぷいと顔をそむけ、ムスッとした様子でズカズカと先を歩いていく。慌ててアドニスがその背を追った。
――しかし。
通路の奥に差しかかった瞬間、空気が一変する。厚い鉄扉が無機質に立ちはだかり、静寂の中に水滴の落ちる音が響いた。湿った匂いが漂い、微かに人の気配が混じっている。
さっきまでの笑い声は、まるで遠い幻のように掻き消えていった。
――
――同じころ。扉の奥。
薄暗い部屋。
小さな明かりに照らされた冷たい床の上で、子供たちが身体を寄せ合っていた。
かすかな物音に全員が同時に息を止めた。
時間が止まったかのように、暗闇の中で耳だけが研ぎ澄まされていく。
「……ねえ、今、なんか音がしなかった?」
年端もいかぬ少女が、膝を抱えて囁く。周囲には同じような年齢の子供たちが十数人。誰もが不安げに顔を伏せている。
「大丈夫……お姉ちゃんが言ってた。“もうすぐ助けがくる”って……」
そう答えた少年の声は震えていたが、その目だけは何かを信じていた。
そして、――部屋の奥。
重く閉ざされた鉄扉の向こうで、誰かの足音が近づいてくるのだった。
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