第七章【椿】

1.

わたしは、この絶望から、逃げ出したかった。ずっと辛い思いをしてきて、耐性が着いたと思った人ほど、絶望がより濃くなると、限界が来るものだと思う。

わたしも昔から辛くて、徐々に絶望がわたしを蝕んでいった。

大丈夫、わたしは耐えられると思おうとしたのも、一種の毒や洗脳だと思う。

人は、ふとした選択で、暗い方に落ちる。一度言ってしまった黒いことばもそう簡単には消えない。償いたい、取り消したいと思ったことばや選択は消えず、後悔する度に足枷は重くなる。

それなのに人は、後悔してしまう。

母に見放され、唯一やれることだったホラー小説の居場所も奪われた。生きがいや趣味は元々持ちたくなかった。ホラー小説も全く楽しくなかったし、生きがいにも、趣味にもできなかったけれど、何も出来ない日々が辛い。

わたしには、辛い思い出を反芻することしか残されていない。過去を思い出す度辛くて、戻りたくて、ああしていれば、こうしていればと考えてしまう。

そんな自分が嫌いだ。

けれどわたしには、もう、何も残されていない。

最後に味わえた食事を思い出したくても思い出せない。食感は普通に感じるし、味も感じるのに、おいしいと言う喜びが、根こそぎ奪われたように、無感情に食べてしまう。

寝ることは唯一の逃避だが、その時間は溶けるようにすぎてゆく。起きた時に、絶望が際立ち、余計につらい。

もう、現実をみていたくない。

わたしは、眠ることにのめり込んで行った。たとえ短い時間でも、わたしはその時だけ忘れられる。しかし無限に眠ることは出来ず、気がついたら眠れない日が続いた。

よるは、昼間に理性で押さえ込んだ感情も本能も、蓋を簡単に外してしまう。

わたしは、ずっと寝ていたかった。

時間が過ぎるのが怖い。もう二十五歳なのに、自分のことを自分でできないわたしが嫌いだ。

心が大人になれず、年齢だけを重ねるのが怖い。大人になろうと決めたのに、わたしは強くなれなかった。年齢と精神年齢の差が開いてゆくのが恐ろしくて、無駄に時間を消費する自分が嫌いになる。

なぜわたしは、後悔したり、絶望したりするだけで、前に進めないのだろう。

時間がわたしという存在を、少しずつ殺してゆくように思えて怖い。

わたしは、このままでは、馬鹿なまま死んでしまう。

わたしは、母が居なくなったあと、どう生きてゆけば良いのだろう。

わたしは時間が止まるのも、過ぎるのも嫌だ。このままこの絶望の中にいるのも辛いし、状況が変わらないまま、年だけ重ねるのが怖い。わたしは十八歳の時から、何も変わっていない。絶望に囚われ、助けの手を探す。人任せな生き方しかできない。

どうしたら、わたしは代われるのだろう。

恐怖がわたしを、さらに重い絶望に突き落としてゆく。

わたしは、この絶望から、解放されたかった。

わたしは、もう、どうすることもできない。

わたしは昔見えていたはずの道筋が全く見えなくなっていた。

どうすることも出来ないと諦めてばかりな自分が情けない。諦めているから、行動しないからこのままなのは分かっている。

分かっているのにわかられない自分。なぜそんなに無能なのかと思うが、答えは見つからない。

このまま早く死んだ方が母や他の人のためになるのだろうか。生きているのが怖い。

皆に迷惑をかけるだけで、馬鹿にされ、価値がないと思われながらここにいるのが辛いのに、意思の弱さから決断できない。

死ぬのが怖いのではない。苦しむのが怖い。そんなことを考えるわたしは、辛さを認めて貰えない気がした。

つらさを打ち明けて認めて貰えず馬鹿にされるなら、消えてしまいたい。寝ている間に心臓発作が起きないかと、本当に願った。

わたしは、この絶望から、逃げ出すための、何かを、求めている。

何で死にたいわたしが生きていて、行きたい人が生きられないのだろうか。わたしは、寿命を困っている人にあげたいと思った。そうすればわたしは認めてもらえる。

命を上げた優しい人として感謝され、わたしを好きになってもらえる。無価値な人間と思われなくなる。


そして解放される。


わたしは、街を、さまよっていた。

あてもなく、ただ、ひたすらに、歩き続ける。

アスファルトの上を歩くわたしの足取りは、重く、足に重い鎖が繋がれているようだ。

街ゆく人々は皆、楽しそうに笑っている。

その笑顔は、まるで、わたしには、遠い世界の光のように見えた。

わたしはなぜ、そうではないのだろう。なぜわたしだけ苦しまなければならないのだろう。

皆はどんなに辛くても、自分で耐えて、楽しいことを見つけられる。わたしにはなぜ、他の人のような強さがないのだろうか。

わたしは、一つの小さな看板の前に、立ち止まる。占いと書かれた、小さな看板だ。

「辛いこと、なんでも解決します」と書かれた看板が、わたしを呼んでいるように囁きかけている。

その言葉を見た瞬間、わたしは、頭の奥で、嫌な予感がした。

わたしは、この光景を知っているような感じがした。

母も、こうやっておかしくなったのだ。

母もこうやって、怪しいものにのめり込んでいったのだ。

わたしは、その時の母の目を、鮮明に、思い出していた。

光の宿っていない、冷たくて視線が定まらない様子が、ガラスに移るわたしの顔と重なる。わたしは、母と同じ道を、歩もうとしているのだ。

わたしは絶望から逃げ出すために、母と同じように、怪しいものにすがろうとしている。そんな自分自身が、嫌で、嫌で、たまらなかった。

わたしの心臓が音を立てるのが、とたんに際立う。ここは母が通っている占いの店だ。母の説明と完璧に重なる。

わたしはこのまま、母の騙された占い師に騙されてしまうのだろうか。

わたしはこのまま、母と同じように狂ってしまうのだろう。

わたしは、その恐怖に、押しつぶされそうになった。

しかしわたしの足は、吸い寄せられるように店に向かっている。

わたしはこの店から逃げ出すことができないどころか、店の扉に手をかけた。



ガチャリと、扉が開く音が、耳に響く。

その音は、わたしの辛うじて保っていた理性が散る音に似ていた。扉を開けた途端、わたしは解放されたくて、もう引き返すことを忘れる。

店の中は薄暗くて、母が言うように不思議な空気が流れていた。

お香の匂いが鼻をかすめる。

部屋の中には、水晶玉や、タロットカード、不思議な置物が並んでいる。母は、この占い師にこれらを買わされたのだ。母は何円使ったのか分からないが、わたしもこれから、残り少ない貯金を食い尽くされるのだろうか。

わたしは、その不気味な雰囲気に、ただただ立ち尽くしていた。

わたしの心は、もう、後戻りすることを拒んでいる。たとえおかしくなっても、もう縋らないとどうにもならないと告げている。

わたしはただ、この不思議な空間に身を委ねるしかなかった。

絶望から解放されたい。

不幸から解放されたい。

母から解放されたい。

わたしはそう、心の中で叫び続けていた。

しかしわたしが、この場所から、もう二度と逃げ出すことができないことを、わたしは知っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る