3.
母の言葉の刃物が久しぶりに突き刺さったあの日から、わたしは、毎日、夜の帳が降りるのを恐れていた。夜は、母の独壇場だった。わたしは、ただ、黙って、母の言葉の海に沈んでゆくしかない。
しかし、それだけ日々は、突然、終わりを迎えた。文句を言われるのは変わらない。
母が、近所の婦人たちを、家に招き始めたのだ。そのような日常になった時、母の文句が婦人たちに分散されないかと期待した。けれどそれは叶わず、わたしが泣いたあと、どんなに辛くても、わたしは全部溜め込むようになった。
最初は、一人、また一人と、近所の顔見知りの婦人たちが、お茶を飲みに来るだけだった。しかし、次第に、人数は増え、リビングは、毎日のように、彼女たちの声で賑わうようになった。
母は、彼女たちに、占いを始める。
それは、わたしが、母の「愛」という名の鎖に縛られる以前から、母が、わたしの知らないところで、していたことなのだろうか。それとも、あの占い師に、教えられたことなのだろうか。
わたしには、何も、分からない。
ただ、元々少し変だった母が、完全に狂ったのは占い師と出会ってからなのは分かる─。
母は、わたしに、昔の夫への文句を言うときに使うあの冷たく、見下すような声で、彼女たちに話しかけていた。しかし、その声は、彼女たちにとっては、まるで、神の啓示のように、響いているのだろう。少なくても、婦人たちが母のことをおかしくは思っていないのは確かだ。毎日のように通っているのはそういう事なのだろう。
「あなたが、今、抱えている苦しみは、全て、あなたの気の流れが、滞っているせいですよ。」
母の声は、自信に満ちていた。
「このブレスレットを身につければ、悪い運気を、跳ね除けてくれますから。」
母は、そう言って、ブレスレットを、彼女たちに、売っていた。
彼女たちは、何の疑いもなく、母の言葉を信じ、1人ずつブレスレットを購入していった。その姿は、わたしには、まるで密教の儀式のように見える。とても、正しいとは思えない。理性を捨ててしまえば、わたしは苦しまなくなる。けれどそれは、わたしがわたしでなくなるときだ。それがどうしても怖くて、1歩をふみだせない。
わたしは、その光景を、物陰から気づかれないように見ることしかできなかった。
母が、近所の婦人たちに、占いを始めたのは、偶然ではない。
母が通っている占い店の占い師が、「あなたの気の流れが、滞っていますね。このブレスレットを身につければ、悪い運気を、跳ね除けてくれますよ。」と、母に、囁いていたことを、わたしは知っている。会社帰りに、うっかり聞いてしまったことは、誰にも言えない。
母は、わたしを支配して、自分の欲求を満たすために、わたしを雁字搦めにしようとしている。母は誰かにすがりつきたくて占いを始めたが、それをわたしを縛る物に使っているのも事実だ。
わたしは、そのことに、胸の奥が、ひりひりと熱くなるのを感じた。
しかし、わたしは、その偽りを、誰にも話すことができない。
わたしは、もう、誰にも、この絶望を、話すことができない。
わたしは、ただ、一人、この闇の中で、息をひそめていた。
怖い。また裏切られるのではないかと、思ってしまう。
それでも、もう耐えられないわたしは、勇気を振り絞り、一人の婦人に話しかけた。
彼女は、わたしに、いつも優しく微笑みかけてくれる、近所の人だ。
わたしは、彼女になら、この絶望を、話せるかもしれないと微かな希望を抱いた。彼女が母の占いの後に帰る時、わたしは部屋にあげた。
「あの…、お母さんは…」
わたしの声は、震えていた。
婦人は、優しいのに、母に似た不思議な目で、わたしを見ている。
「どうしたの、椿ちゃん?」
婦人の声は、温い。
わたしは、その温かさに、甘え、全部を話そうとした。
しかし、言葉が、喉の奥に、詰まって、声にならない。
わたしは、無理やり、口を開いた。
「母は、嘘をついているんです。あの占いは…」
そう言うと、心にたまったくろいものが、すこしはでたきがした。全部出し切りたくて、また話そうとすると、わたしの言葉に、婦人の表情が、凍りつく。
婦人は、わたしを、信じられない、という目で、じっと見つめている。
「…どういうこと、椿ちゃん?」
婦人の声は、先程までの、温かさではなく、冷たくて、見下すような声に変わっていた。
わたしは、その声に、身体が、震えるのを、止めることができない。
「あの占いは、全部、嘘なんです!お母さんは、ただ、お金が欲しくて…」
わたしの言葉に、婦人は、鼻で笑った。
「椿ちゃん、あなた、何を言っているの?」
婦人の声は、わたしを、憐れんでいるように、響いた。先程でた黒いものが、大きくなってわたしに突っ込まれる。
一気に息が苦しくなって、意識も揺れる。
「お母さんが、どれだけ、あなたのために、頑張っているか、あなたは、知らないの?」
婦人の言葉は、まるで、鋭い刃物のように、わたしの心を、切り刻んだ。
「お母さんは、あなたのために、毎日、こんなに遅くまで、働いているのよ。あなたのために、この家を、守っているのよ。なのに、あなたは…」
婦人の言葉は、まるで、わたし自身の心の声のように、わたしの耳に響く。
わたしは、その言葉に、打ちのめされるしかなく、何も、言い返すことができない。
婦人は、わたしを、さらに追い詰める。
「お母さんは、あなたが、自立できるように、一生懸命、応援しているのよ。それなのに、あなたは、お母さんの邪魔ばかりして…」
婦人の声は、わたしを、突き放した。
わたしは、もう、わかっていた。
わたしは、誰にも、理解してもらえない。
わたしは、誰にも、この絶望を、話すことができない。
わたしは、この世で、ただ、一人、取り残されてしまったのだ。
わたしは、その場で、立ち尽くしたまま、婦人の言葉を聞いていた。
婦人の言葉は、わたしを、縛り付ける鎖のように、わたしの心を、雁字搦めにしてゆく。
わたしは、その鎖から、逃げ出すことができない。
わたしは、もう、何をすべきか、わからない。
わたしは、もう、自分という存在が塵よりも悲惨な存在だと理解してしまった。知らない方がいいことが沢山あるとも、わたしは知った。知りたくないのに、それも知った。
わたしは、ただ、その場に、崩れ落ちた。
もう、泣けない。崩れ落ちても、泣くような声が僅かに盛れるだけで、涙が出ない。黒い感情は、これでもかと言うほど濃縮され、わたしはもう、パンクしそうだ。あっという間に7年がすぎた。わたしはあと四年で三十になる。何も成果が出せないまま、みなに期待される年齢になるのが怖い。
わたしが大人なのは、年齢だけだ。中身は、価値がないほど子供で、馬鹿にされても仕方がないと思った。わたしはただ、母の文句を聞くしか、生きてゆく道はないのだろうか。
わたしは本当は、またもがきたかった。もがくことは、希望をまだ見ている証拠だから。
わたしはもう、気づいて欲しいと思いたくない。助けて欲しい、気づいて欲しい、そう思う度、足が取られ、沈んでしまう気がした。
わたしは、この絶望から、二度と、抜け出すことができないのだろうか。
夜が、わたしを、包み込んでゆく。
わたしは、ただ、一人、その闇の中で、息をひそめていた。
もう、誰も、わたしを助けてくれない。
わたしは、もう、何をすべきか、わからなくなっていた。
わたしは、一人だ。
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