第8話
谷に足を踏み入れた瞬間、空気が死んだ。
ひんやりと湿った重い空気が、まるで濡れた布のように肌へまとわりつく。腐った土と澱んだ水が混じり合ったような不快な臭いが鼻をつき、思わず息を止めた。
これが瘴気。
胸のあたりがもやもやして、肺が鉛を詰められたように重くなる。エリアスさんにもらった護符を握りしめると、胸元からじんわりと温かい力が広がり、不快感が少し和らいだ。
「リナ様、ご気分は?」
すぐ隣を歩くカインさんが、心配そうに私の顔を覗き込んできた。彼の顔は普段の冷静さが嘘のように、険しい表情に満ちている。銀色の髪も、このよどんだ空気の中では輝きを失っているように見えた。
「大丈夫です。この護符のおかげか、思ったよりは平気です」
「無理はなさらないでください。少しでも異変を感じたら、すぐに俺に」
「分かっています。ありがとう、カインさん」
彼の気遣いが私の不安な心を温めてくれる。
先頭を歩くエリアスさんは、時々立ち止まっては枯れた木の幹に触れたり、乾いた地面の土を少量採取したりしている。その姿はまるで危険な場所にピクニックにでも来たかのように、落ち着き払っていた。
「……瘴気の濃度が、予想以上に高いですね。これはかなり強力な呪いが谷の中心部で発生している証拠です」
彼は独り言のように呟くと、私たちの方を振り返った。翠の瞳だけが、この灰色の世界で色を保っている。
「ここから先は、いつ魔物に遭遇してもおかしくありません。お二人とも、警戒を怠らないように」
「言われるまでもない」
カインさんが腰の剣の柄に手をかけながら、低く答える。
私もごくりと唾を飲み込んだ。
魔物。カインさんを瀕死の状態に追い込んだ、あの闇夜蛇のような恐ろしい存在がこの先にいるのかもしれない。
そう思うと足がすくみそうになる。
でも私の力はこういう時にこそ役に立つはずだ。
私は自分の手のひらをぎゅっと握りしめた。
私たちが谷の奥へと進むにつれて、瘴気はますます濃くなっていく。視界も悪くなり、まるで灰色の霧の中を歩いているようだった。
その時、私の足元で何かがもぞりと動く気配がした。
「え?」
視線を落とすと、信じられない光景が広がっていた。
私が歩いた後、その足跡から小さな緑の芽がぽつり、ぽつりと芽吹いているのだ。
それは淡い光を帯びており、瘴気に満ちたこの死の大地にはあまりにも不似合いな、生命力に溢れた光景だった。
「リナ様……これは……」
カインさんもその異変に気づき、驚愕に目を見開いている。
「ほう……。無意識のうちに力が溢れ出しているのですね。瘴気の淀みを貴女様の生命力が中和し、新たな命を生み出している……。素晴らしい」
エリアスさんが感心したように呟いた。
私の力は私が意識しなくても、この枯れた大地を癒そうとしているらしい。
その事実は私に少しだけ、勇気を与えてくれた。
私がそう思った、まさにその時だった。
「グルルルル……!」
前方の霧の中から、獣の唸り声のようなものがいくつも聞こえてきた。
空気がびりびりと震える。
カインさんが瞬時に剣を抜き放ち、私の前に立ちはだかった。
「来ます! リナ様は、俺の後ろに!」
霧の中から、ぬっと黒い影がいくつも姿を現す。
それは狼に似た魔物だった。しかしその体は所々が腐り落ち、骨が剥き出しになっている。爛々と赤く光る瞳は憎悪と狂気に満ちていた。腐肉の臭いが瘴気の中でも際立っている。
「アンデッド・ウルフ……! 瘴気に当てられて、凶暴化している!」
カインさんが忌々しげに吐き捨てる。
数にして五体。
狼たちは涎を垂らしながら、じりじりと私たちを取り囲むように距離を詰めてくる。
一体が痺れを切らしたように、カインさんに向かって飛びかかった。
「はっ!」
カインさんの剣が閃光のようにきらめく。
狼の首がいとも簡単に宙を舞った。
しかし残りの狼たちは怯むどころか、さらに興奮したように一斉に襲いかかってきた。
「ちぃっ!」
カインさんは一人で三体の狼を相手にしながらも、一歩も引かない。
彼の剣技はまるで舞いを踊るように美しく、そして恐ろしいほどに正確だった。
一体、また一体と狼たちが彼の剣の前に倒れていく。
その時、残る最後の一体がカインさんの背後をすり抜け、私に向かって牙を剥いた。
「リナ様!」
カインさんの悲痛な叫び声が響く。
間に合わない。
そう思った瞬間、私の体は考えるより先に動いていた。
守られてばかりではいけない。
地面に向かって手をかざす。
頭の中に思い浮かべたのは、薔薇の棘。鋭く硬い、無数の棘。
(守って!)
私の意思に応えて、地面がごごご、と音を立てて隆起した。
そして無数の太い蔓が鞭のようにしなりながら、狼に襲いかかった。
蔓にはびっしりと鋼のような棘が生えている。
「キャンッ!?」
狼は蔓の檻に囚われ、身動きが取れなくなった。
蔓は狼を傷つけることなく、ただその動きを完璧に封じ込めている。
ほんの一瞬の出来事だった。
「……な……」
カインさんは目の前の光景が信じられないといった表情で、固まっている。
エリアスさんも興味深そうに目を細め、私の作り出した蔓の檻を観察していた。
「……素晴らしい。ただ花を咲かせるだけでなく、植物を意のままに操り、武器としても、そしてこうして捕縛のためにも使えるのですね。実に、応用の利く力だ」
彼の言葉に私ははっとした。
そうだ、私の力はただ癒すだけじゃない。
守るためにも使えるんだ。
その事実は私に大きな自信を与えてくれた。
カインさんは最後の狼を斬り捨てると、すぐに私の元へ駆け寄ってきた。
「リナ様! お怪我は!?」
「大丈夫です、カインさん。見ての通り、ピンピンしています」
「しかし……! なんて無茶を……! もし一歩間違えれば……!」
彼は心底心配してくれているようだった。その過保護っぷりが少しおかしくて、私はくすりと笑ってしまった。
「ふふ、ごめんなさい。でもカインさんが守ってくれるって信じてましたから」
「リナ様……」
私の言葉に彼は言葉を詰まらせ、そして何かを諦めたように深くため息をついた。
私たちは蔓に捕らえられた狼をそのままにして、再び谷の奥へと進み始めた。
先ほどの戦闘でこの谷の危険性を身をもって知った。
ここから先はさらに強力な魔物が現れるかもしれない。
三人の間に緊張が走る。
三十分ほど歩いただろうか。
霧が少しずつ晴れてきた。
そして目の前に、信じられない光景が広がった。
谷の中央部が巨大なクレーターのように、円形に窪んでいる。
その中心にそれはあった。
高さが十メートルはあろうかという、巨大な黒い水晶。
表面はまるで磨かれていない岩のようにごつごつとしていて、不気味な紫色の光を脈打つように明滅させながら放っている。
その水晶からどろりとした濃密な瘴気が、絶え間なく溢れ出していた。
この谷を覆うすべての呪いの元凶。
あれがそうなのだと、直感で分かった。
「……あれが、『呪いの晶石』。大地の生命力を吸い取り、瘴気を振りまく忌まわしき存在です」
エリアスさんが苦々しげに呟いた。
水晶の周囲には先ほどのアンデッド・ウルフだけでなく、巨大な蝙蝠のような魔物や蛇とトカゲを合わせたような、異形の魔物が何体も蠢いている。
彼らは水晶から放たれる瘴気を浴びて、うっとりとしているようにも見えた。
「あれを破壊しなければ、この谷は永遠に死の大地のまま、ということか」
カインさんが剣を握りしめながら言う。
「ええ。ですが容易ではありません。あれに近づくだけで正気を保つのは難しいでしょう。それにあそこにいる魔物たちも、黙って見ているはずがない」
エリアスさんの言葉は絶望的だった。
普通の人間ならここで引き返すしかないだろう。
でも私は違う。
私はあの黒い水晶を見て、恐怖よりも先に別の感情を抱いていた。
(……かわいそう)
そう思ったのだ。
あの水晶は泣いているように見えた。
助けて、と叫んでいるように感じた。
私の【絶対的植物知識】が頭の中で情報を告げる。
(あれは元々、この谷の生命力を司る『大地のへそ』だったもの。何者かの邪悪な呪いによってその力を汚染され、生命力を吸い上げる存在へと無理やり変えられてしまった……)
だとしたら。
私がすべきことは一つしかない。
破壊するんじゃない。
あれを元の姿に、戻してあげるんだ。
「私、行きます」
私は静かに、しかしはっきりとした口調で言った。
「リナ様!?何を仰るのですか!危険すぎます!」
カインさんが血相を変えて私の腕を掴む。
エリアスさんも驚いたように私を見ていた。
「正気ですか、リナ様。あれは呪いの塊です。触れただけで魂まで汚染されてしまいますよ」
「大丈夫です。私には分かります。あれは本当は、悪いものじゃない」
私はカインさんの手をそっと振りほどくと、一人水晶に向かって歩き出した。
私の足取りに迷いはなかった。
魔物たちが一斉に私に気づき、敵意のこもった唸り声を上げる。
何体かが私に向かって突進してきた。
私は足を止めない。
ただまっすぐに水晶だけを見つめていた。
そして心の中で強く念じる。
(みんな、もう苦しまなくていいんだよ)
私の体から温かい緑色の光が奔流のように溢れ出した。
光は波紋のように地面を伝わって広がっていく。
光に触れた魔物たちはぴたり、と動きを止めた。
彼らの狂気に満ちた赤い瞳から、すうっと憎悪の色が消えていく。
そして彼らの体は光の粒子となって、穏やかに空へと溶けて消えていった。
まるで呪いから解放されて天に還っていくかのように。
あっという間に水晶の周りにいた魔物たちは一掃されていた。
後に残されたのは静寂だけだった。
「……なんて、ことだ……」
後方からカインさんの呆然とした声が聞こえてくる。
私は構わずに水晶の前まで歩み寄った。
そしてひび割れた乾ききった地面に、そっと両手をつく。
私のすべての力をこの大地に注ぎ込む。
(お願い。もう一度、元気になって)
私の祈りに応えて光はさらに輝きを増した。
私の手のひらから緑色の光が大地へと注ぎ込まれていく。
すると黒くひび割れていた地面がみるみるうちに潤いを取り戻し始めた。
そしてその地面から一斉に、小さな真っ白な花の芽が吹き出したのだ。
芽は驚くべき速さで成長し葉を広げ、そして一斉に花開いた。
それはスズランに似た可憐な白い花だった。
一つ一つの花が淡い聖なる光を放っている。
花畑は円を描くように黒い水晶を取り囲むように広がっていった。
花々から放たれる聖なる光が、水晶から溢れ出す瘴気をじゅわじゅわと浄化していく。
不気味な紫色の光を放っていた水晶は、その輝きを少しずつ失い始めていた。
私はすっと立ち上がると、今度は黒い水晶そのものにそっと手のひらを触れさせた。
ひんやりとした岩のような感触。
その奥から深い、深い悲しみの声が聞こえてくるような気がした。
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