第16話

マルティン伯爵が見苦しく言い逃れをしようとした、その時だった。玉座の間の重厚な扉が、再び静かに開かれた。そこに立っていたのは、宮廷薬師長のドミニク先生だった。その老いた手には、一つの小瓶が大切そうに握られている。


「……どうやら、間に合ったようじゃな」


ドミニク先生は、自分の体から立ち上る黒い靄に狼狽するマルティン伯爵を一瞥すると、動じることなく国王陛下の前へと進み出た。その場にいる誰もが、この国の薬学の権威の登場に息を呑む。


「陛下。王太子殿下の解毒薬が、完成いたしましたぞ」


「おお、まことか、ドミニク!」


陛下の声に、安堵と希望の色が浮かぶ。


「はい。そして、殿下に毒を盛った犯人も、特定いたしました」


ドミニク先生はそう言うと、懐からもう一つの証拠品を取り出した。それは、マルティン伯爵家の紋章が刺繍された、小さな革袋だった。その場にいた父、アルストロメリア公爵の顔がさっと青ざめるのが見えた。


「これは、先日、マルティン伯爵の屋敷に密かに忍び込んだ部下が、書斎の隠し金庫から見つけ出したものです。中には、殿下に盛られた毒と、寸分違わぬ成分の植物が……。言い逃れはできませぬぞ、マルティン伯爵」


決定的な物的証拠を突きつけられ、マルティン伯爵の顔が、血の気を失い絶望に染まった。彼は、その場にへなへなと崩れ落ちる。私の浄化の力によって可視化された邪悪な靄が、まるで最後の悪あがきのように揺らめいて消えた。


「……これまで、か」


観念したように、彼は力なく呟いた。こうして、一国の王位継承を揺るがした毒殺未遂事件は、全ての真相が白日の下に晒され、幕を閉じたのだ。


マルティン伯爵は、国家反逆罪でその場で衛兵に捕らえられ、連行されていった。彼の一族は、爵位を剥奪の上、領地も没収されることになったと聞いた。そして、私の妹、セレスティーナも、事件への関与を疑われ、北の果ての修道院へと送られることになった。彼女が父の野心の道具にされていたのか、それとも、自らの意思で加担していたのか。今となっては、もう、どうでもいいことだった。


全ての騒動が収まった後、私たちは、改めて国王陛下と向き合った。解毒薬を飲んだクリフォード殿下は、まだ意識が戻らないものの、その顔色は、以前よりもずっと良くなっていると報告があった。


「……ありがとう、エリアーナ嬢。そして、ヴィンターベルク公。君たちのおかげで、息子は助かった」


陛下が、玉座から降り、私たちの前で深く頭を下げた。一国の王が、臣下に頭を下げるなど前代未聞のことだ。


「君の力を、呪われているなどと誤解していたことを、心から詫びる。君は、まぎれもなく、この国を救った聖女だ」


「……もったいないお言葉でございます」


私が静かに返すと、陛下は顔を上げ、温かい眼差しを私に向けた。


「何か、褒美をやらねばな。君たちの望みを、何でも聞こう。金か、地位か、あるいは新たな領地か。望むものを何でも与えるぞ」


陛下の言葉に、私は、隣に立つアレクセイ様と顔を見合わせた。そして、二人で、にっこりと微笑む。私たちの望みは、もう、とっくに決まっていた。


「では、陛下。一つだけ、僭越ながらお願いがございます」


「うむ。申してみよ」


「私たちを、このまま、辺境の地へお帰しください。そして、もう二度と、私たちの暮らしに干渉しないと、お約束いただけますでしょうか」


私の言葉に、陛下は、少し驚いたような顔をしたが、やがて、心から楽しそうに笑った。


「……そうか。君たちは、それを望むか。富も名誉もいらぬと。実に、君たちらしいな。分かった、約束しよう。ヴィンターベルク辺境伯領は、これより君たちの王国だ。王家とて、みだりに干渉することは許さん。誰にも、君たちの楽園作りを邪魔はさせん」


「ありがとうございます、陛下」


私たちは、心からの感謝を込めて、深く頭を下げた。こうして、私たちは、ようやく、本当の意味での自由と平和を手に入れたのだ。


王都を去る日、出発の準備を整えていると、一人の男が私たちの前に現れた。私の父だった。彼は以前の傲慢さが嘘のように憔悴しきっており、この数日で一気に老け込んだように見えた。


「……エリアーナ」


「はい、お父様」


「……すまなかった。わしは、ずっと、お前を誤解していた。お前の価値を、全く、分かっていなかった。この父を、許してくれとは言わん。だが、これだけは……」


彼は、深々と、私に頭を下げた。その姿に、私の心は不思議なほど静かだった。もう、憎しみも、憐れみもない。ただ、血の繋がった他人、という感覚だけがあった。


「お元気で、お父様」


私は、静かに、事実だけを告げた。それだけ言うと、私は、彼に背を向けた。もう、二度と、会うこともないだろう。さようなら、私の不幸な過去。


「行こう、エリアーナ」


アレクセイ様が、私の手をそっと取った。私は、力強く頷き、彼と共に馬に乗った。私たちの帰るべき場所へ。愛する人たちが待つ、あの緑の大地へ。


王都の城門を抜ける時、道行く人々が私たちを見ていた。しかし、以前のような好奇や侮蔑の視線はどこにもない。そこにあるのは、畏敬と、感謝の念だった。


「聖女様、万歳!」


誰かが叫んだのをきっかけに、あちこちから称賛の声が上がる。私は、少し照れくさかったが、それでも彼らに向かって、小さく手を振った。


全てを終わらせ、私たちは王都を後にする。隣には、誰よりも信頼できる最愛の人がいる。振り返ることは、もうない。私たちの前には、どこまでも続く未来と、希望に満ちた道だけが広がっているのだから。

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