第8話

「待ってください!」


勝利に沸く歓声の中、私の鋭い声が響いた。

騎士も村人も、皆が驚いて私に視線を向ける。


「どうした、エリアーナ嬢?」


アレクセイ様が訝しげに問いかけるが、私は目の前の光景から目を離せなかった。

大地から伝わる微かな震え。空気中に漂う、腐臭にも似た淀んだ気配。さっきのゴブリンたちが放っていた邪気とは比べ物にならないほど濃密で、邪悪な何かが潜んでいると、私の浄化の力が警鐘を鳴らしていた。


「……まだ、終わっていません。もっと大きなものが、この近くにいます」


私の言葉が、安堵に緩みかけていた空気を再び引き締める。

アレクセイ様の表情が険しくなった。彼もまた、ただならぬ気配を感じ取ったのだろう。

騎士たちが、再び緊張した面持ちで武器を構え直す。


「全員、警戒を怠るな!」


アレクセイ様の声が飛ぶ。

その直後、森の奥から、木々がまるで小枝のようにへし折られる凄まじい音が聞こえてきた。大地が揺れ、村人たちの顔から血の気が引いていく。

そして、その巨体が姿を現した時、歴戦の騎士の一人でさえ絶望的な声を上げた。


「……オーガ、だと!?」


そこにいたのは、ゴブリンなど比較にならないほどの巨体を持つ魔物だった。

身長は五メートルはあろうか。筋骨隆々とした体は、まるで岩の塊のようだ。その手には、大木をそのまま引き抜いたかのような巨大なこん棒が握られている。一つ目のにごった眼が、憎悪に満ちた光で私たちを睨みつけていた。

オーガ。ゴブリンよりもはるかに上位の魔物であり、その力は騎士数人がかりでも敵わないと言われている。

しかも、そのオーガの様子は明らかに異常だった。体の一部がどす黒く変色し、まるで腐敗しているかのように、不気味な瘴気を絶えず放っている。


「……様子がおかしい。あれは、何かに汚染されている」


アレクセイ様が、忌々しげに呟いた。


「おそらく、この土地を蝕む呪いの影響でしょう。魔物さえも、その邪悪な力に取り込まれてしまったようです」


「なるほどな。道理で、凶暴なわけだ」


オーガは、咆哮を上げた。

空気がビリビリと震えるほどの、すさまじい雄叫びだ。

村人たちは、あまりの恐怖に腰を抜かし、その場にへたり込んでしまっている。


「エリアーナ嬢、今度こそ小屋の中へ。あれは、君がどうこうできる相手ではない」


彼の言う通りかもしれない。

私の力は、あくまで治癒と浄化。直接的な戦闘能力はない。オーガの圧倒的な暴力の前には、紙のように無力かもしれない。

恐怖に足が震える。

でも、あの黒い瘴気を見るうちに、恐怖は別の感情に変わっていった。

あれは苦しんでいる。土地の呪いに取り込まれ、理性を失い、ただ破壊をまき散らすだけの存在に成り果ててしまったのだ。

私なら、あの苦しみを終わらせてあげられるかもしれない。


「……いえ、私に考えがあります」


私は震える声を抑え込み、意を決して言った。


「アレクセイ様。私を、あそこまで連れて行っていただけませんか?」


私が指さしたのは、オーガの目の前だった。


「何を言う! 正気か!?」


「はい。正気です。私のこの力、もしかしたら、魔物に取り憑いた呪いさえも浄化できるかもしれません」


「だとしても、危険すぎる! 一撃でも食らえば、君の体など……!」


「お願いします!」


私は、彼の言葉を遮って、強く言った。

その瞳には、恐怖を乗り越えた強い意志が宿っていた。


「私を信じてください。そして、あなたの力で、私を守ってください」


私の真剣な瞳を見て、アレクセイ様はしばらく黙り込んだ。

彼の青い瞳の中で、激しい葛藤が渦巻いているのが分かる。愛する者を危険に晒すことへの躊躇と、私の覚悟を信じたいという思い。

だが、やがて彼は、深く息を吐くと、一つの決断を下した。


「……わかった。君の覚悟、信じよう」


彼は、私をひょいと腕に抱き上げた。

いわゆる、お姫様抱っこというやつだ。


「えっ!?」


「しっかり捕まっていろ。振り落とされるなよ」


そう言うと、彼は地面を蹴った。

信じられないほどの跳躍力。私たちの体は風を切り、あっという間にオーガの目前まで迫っていた。

オーガが、私たちに気づき、巨大なこん棒を振り上げる。

絶体絶命の窮地。

だが、私は不思議と怖くなかった。なぜなら、彼の腕の中にいると、絶対に安全だという確信があったからだ。


「――アイスウォール」


アレクセイ様が短く唱えると、私たちの目の前に、分厚く巨大な氷の壁が出現した。

直後、オーガのこん棒が氷壁に叩きつけられ、轟音と共に砕け散る。しかし、その一瞬の隙があれば十分だった。


「今です!」


私は、彼の腕の中から身を乗り出し、オーガに向かって両手を突き出した。

体中の浄化の力を、一点に集中させる。

私の手から放たれたのは、今までで最も強く、そして清らかな光の奔流だった。それは、邪悪を打ち払う聖なる矢となって、オーガの黒く変色した胸へと突き刺さる。


「グオオオオオオオッ!」


オーガが、苦悶の絶叫を上げた。

光が突き刺さった部分から、黒い瘴気が煙のように立ち上っていく。オーガの体に取り憑いていた、土地の呪いが浄化されていくのが分かった。

しかし、相手の邪気も強大だ。私の光が、じりじりと押し返されそうになる。


「くっ……!」


「エリアーナ嬢!」


アレクセイ様の心配そうな声が聞こえる。

だめ、まだ力が足りない。このままでは、浄化しきる前に、私の力が尽きてしまう。

そう思った、その時だった。

私を抱きかかえているアレクセイ様の体から、冷たい、けれどどこまでも澄んだ力が、私の背中を通して流れ込んできた。彼の氷の魔力。それはまるで、凍てついた泉の底から湧き出る聖水のように澄み渡っていた。

私の浄化の力と彼の力が混ざり合い、私の体内で渦を巻いて、全く新しい、より強大な力へと昇華していくのが分かった。


「これは……!」


光の奔流は、もはや濁流となり、オーガの全身を飲み込んでいく。

オーガの体から、完全に黒い瘴気が霧散し、その巨体がゆっくりと後ろに倒れていった。

地響きを立てて倒れたオーガは、もう動かない。

その表情は、長く続いた苦しみから解放されたかのように、どこか安らかに見えた。


「……やった」


全身の力が抜けて、私はアレクセイ様の腕の中にぐったりと体を預けた。

彼は、そんな私を優しく抱きしめながら、ゆっくりと地面に降り立つ。

騎士たちと村人たちが、呆然とした表情で私たちを見ていた。

やがて、誰からともなく、歓声が上がる。


「すげえええええ!」


「勝った! オーガに勝ったぞ!」


「聖女様万歳! 氷の公爵様万歳!」

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