偽りの聖女にすべてを奪われ追放された薬師令嬢は、辺境の地で奇跡を起こす~冷徹と噂の辺境伯様は、なぜか私を溺愛して離してくれません~
☆ほしい
第1話
物心ついたときから、私の世界は灰色だった。
与えられた部屋は、広大な公爵邸の北の離れ。陽の光がほとんど差し込まないこの部屋の壁も、床も、簡素な家具も、すべてが色褪せた灰色に見えた。
窓の外に広がるのは、手入れの行き届いた豪奢な庭園ではなく、苔むした石壁だけ。まるで、私という存在を世界から隔離するための箱のようだった。
窓辺に置かれた一鉢の観葉植物も、今はすっかり元気をなくし、土は乾き、葉は力なく萎れている。この部屋にある唯一の生命でさえ、灰色に染まっていく。
「……はぁ」
ため息とともに、その萎れた葉にそっと指先で触れる。ひんやりとした感触。
私、エリアーナ・フォン・アルストロメリアがこの世界に生を受けて十八年。そして、前世の記憶――日本のどこにでもいる会社員、田中瑞希としての二十八年間の記憶が蘇ってから、ちょうど十年が経つ。
瑞希の人生も、灰色だったかもしれない。終わらない残業、殺風景なオフィス、上司の叱責と後輩のミスの板挟み。そしてある夜、疲れ果ててベッドに倒れ込んだまま、あっけなく人生の幕を閉じた。過労死、というやつだろう。
そんな瑞希の灰色の日常の中で、唯一、色鮮やかな記憶があった。
それは、アパートの小さなベランダで育てていたハーブ園の光景。ラベンダーの紫、カモミールの白、ミントの鮮やかな緑。そして、風が運んでくる優しい香り。あの小さな空間だけが、私の聖域であり、癒やしだった。
だから、この世界でエリアーナとして目覚めたとき、願ったことはたった一つ。
(静かに、穏やかに暮らしたい)
できれば、小さな庭のある家で、ハーブを育てながら。それだけでよかったのに。
現実はあまりにも厳しい。この国の名門、アルストロメリア公爵家の長女として生まれた私は、この国では不吉とされる黒髪と黒い瞳を持って生まれてきた。輝く金髪と青い瞳を持つ両親や妹とはあまりにも違う、異質な存在。
家族は私を「呪われた子」と呼び、遠ざけた。私が触れたものは輝きを失い、私がいる場所には不運が訪れると、本気で信じているようだった。侍女たちも私を気味悪がり、必要最低限の世話以外は決して近づこうとしない。
「 blight-handed (ブライト・ハンデッド) 」――枯らす手。
それが、私の影での呼ばれ方だった。私が触れると、磨き上げられた銀食器が曇り、活けられた花はすぐに萎れる。だから、呪われているのだと。
違う。本当は、違うのだ。私のこの力は、たぶん「浄化」。
銀食器の曇りは、手入れを怠った侍女が隠していた汚れが浮かび上がっただけ。花が萎れるのは、そもそも新鮮ではなかったから。私の力は、物事の本来あるべき姿を暴き、生命力を取り戻すきっかけを与えるだけのもの。
でも、その真実を誰にも理解してもらえなかった。私の力は、彼らの怠慢や虚飾を白日の下に晒してしまう、不都合な力でしかなかったのだ。
だから、私は何もしないことを選んだ。誰にも、何にも触れず、ただ息を潜めて、この灰色の部屋で時が過ぎるのを待つ。それが、この家で波風を立てずに生きる唯一の方法だった。
ふと、指先に触れていた萎れた葉に、意識を集中させる。心の奥底から、温かい光が湧き上がってくるような感覚。その光が、指先から植物へと流れ込んでいく。
(元気になって)
そう願うと、指先に触れた葉脈に、かすかな緑色が甦った気がした。でも、それは本当に微かな変化で、気のせいだと言われればそれまでだろう。私はそっと手を離し、再び窓の外の石壁に視線を戻した。
この息苦しい毎日から、いつか解放される日は来るのだろうか。そんな淡い期待を抱くことさえ、もう諦めてしまっていた。
コン、コン。
控えめだが、有無を言わせぬ響きを持ったノックが、静寂を破った。
「エリアーナお嬢様。旦那様がお呼びでございます。書斎までお越しください」
扉の向こうから聞こえる侍女の声は、氷のように冷たく、感情が一切乗っていなかった。私を「お嬢様」と呼びながらも、その声色には侮蔑が滲んでいる。いつものことだ。
「……わかりました。すぐに参ります」
立ち上がり、皺ひとつない、けれど仕立ての古い灰色のドレスを整える。父が私を呼ぶなんて、珍しい。何か、よほど面倒なことでも起きたのだろうか。良い知らせであるはずがないことだけは、確信できた。
重い足取りで部屋を出る。離れの薄暗い廊下を抜け、本邸へと続く渡り廊下を歩く。窓から差し込む光が、私の進む先に埃が舞っているのを照らし出していた。
本邸に入ると、空気は一変する。床は磨き上げられ、壁には美しい絵画が飾られ、豪奢な花瓶には色とりどりの花が咲き誇っている。
まるで、私という存在だけが、この華やかな世界から切り離されたモノクロームの異物であるかのように。すれ違う使用人たちは、私に気づくと、幽霊でも見たかのようにさっと壁際に寄り、深く頭を垂れる。それは敬意からではなく、恐怖と嫌悪からくる動きだった。
父の書斎の前に着くと、重厚なマホガニーの扉が、私を拒絶するようにそびえ立っていた。深呼吸を一つして、扉をノックする。中から「入れ」という、低く不機嫌な声が聞こえた。
扉を開けて中に入ると、そこには息が詰まるような光景が広がっていた。
部屋の主である父、アルストロメリア公爵。その隣には、扇で口元を隠しながらも、私への侮蔑を隠そうともしない母。そして、その二人に寄り添うように立つ、天使のように愛らしい妹のクラリス。彼女の金色の髪は陽の光を浴びて輝き、空色の瞳は勝ち誇ったような光を宿していた。
そして、彼らの向かいのソファに座っていたのは、私の婚約者である、この国の王太子クリストフ殿下。殿下は気まずそうに視線を泳がせている。
その場の誰もが、私にとって敵だった。
ただ一人、予想外の人物がそこにいることを除いては。
部屋の隅、壁際に、まるで彫像のように一人の男性が佇んでいた。白銀の髪に、凍てつくような冬の空を思わせる青い瞳。寸分の隙もなく着こなした王室騎士団の純白の制服が、彼の人間離れした美しさと冷たい雰囲気を際立たせている。
アレクセイ・ヴィンターベルク公爵。若くして騎士団長の地位に上り詰め、「氷の公爵」の異名を持つ、国で最も高貴で、最も恐れられている人物。その身に宿す強大すぎる氷の魔力ゆえに、彼の周りは常に空気が冷たいと噂されている。なぜ、彼がこんな場所に?
父が、重々しく口を開いた。
「エリアーナ。本日、クリストフ殿下との婚約を、正式に破棄させていただくことになった」
その言葉は、何の感情の波も立てずに、私の心をするりと通り抜けていった。ああ、やっぱり。そう思っただけだった。
「理由は、殿下から直接伺いなさい」
促され、クリストフ殿下へと視線を移す。殿下は一度咳払いをしてから、用意された台詞を読み上げるように言った。
「エリアーナ嬢。君のその不吉な黒髪と、常に陰鬱な態度は、次代の国母としてふさわしくない。君の周りでは不幸なことばかりが起こるとの噂も絶えない。よって、君との婚約は本日をもって破棄する!」
次いで、クラリスが殿下の腕にそっと自分の手を重ね、心配そうな、しかしその実、歓喜に満ちた表情で私を見つめる。
「お姉様、ごめんなさい……。でも、殿下とこの国の未来のためなのです」
完璧な芝居だった。父と母は満足げに頷いている。彼らにとって、厄介払いができ、さらに愛する次女を王太子妃にできるのだから、これ以上ない取引だったのだろう。
皆が、私が泣き崩れるか、あるいは怒りに震えるか、そんな反応を期待しているのがわかった。彼らが用意した舞台の上で、悲劇のヒロインを演じることを。
でも、私の心の中に広がっていたのは、絶望でも、屈辱でもなかった。
(……ああ、やっと)
まるで、ずっと背負わされてきた重い、重い枷が、音を立てて外れたような感覚。
(やっと、自由になれる!)
息苦しい王宮の作法も、中身のない殿下との会話も、常にクラリスと比較され続ける日々も、すべてが終わる。もう、この灰色の世界で、息を潜めて生きなくてもいい。
その解放感は、あまりにも甘美で、私の全身を駆け巡った。
「……承知いたしました」
静かに、けれどはっきりとした声で、私は答えた。
その場にいた全員が、息を呑むのがわかった。私の反応は、彼らの脚本にはないものだったからだ。
父が眉をひそめる。
「……なんだと?」
「王太子殿下との婚約破棄、謹んでお受けいたします。これまで、力不足な私に過分なお心遣いをいただき、誠にありがとうございました」
私は、淑女の作法に則り、完璧なカーテシーをしてみせた。顔を上げると、全員が呆然とした表情で私を見ていた。クリストフ殿下は、自分が振った相手に悲しまれなかったことが不満なのか、少しむっとした顔をしている。クラリスの可憐な顔からは、勝利の笑みが消えていた。
「しかし、ただで婚約破棄を認めるわけにはいかん」
我に返った父が、威厳を取り繕うように言った。
「これは公爵家の恥だ。お前には、その責めを取ってもらう。我が公爵家が所有する北の辺境……『灰の不毛地』へ行き、そこの管理を生涯かけて行うのだ。二度と王都の土を踏むことは許さん。これは追放であり、罰だ。わかったな」
灰の不毛地。その名の通り、呪いによって草木一本育たないと言われる、公爵領で最も貧しく、最も過酷な土地。そこに送られることは、貴族にとっては死刑宣告にも等しい。
だが、その言葉を聞いた私の心は、さらに軽く、明るく、躍り上がっていた。
王都から遠く離れた、辺境の地。誰も私を知らない場所。広大な、不毛の土地。
(不毛の地……)
もし、私のこの力が、本当に「浄化」の力なのだとしたら? 呪われた大地でさえ、癒やすことができるかもしれない。
小さな家を建てて、ハーブを植える。色とりどりの花を咲かせる。自分の手で、灰色の世界に色をつけていく。そんな生活が、できるかもしれない。
気づけば、私の口元には、この十年で初めてかもしれない、心からの笑みが浮かんでいた。
「はい。喜んでお受けいたします」
私の弾んだ声に、今度こそ、書斎は完全な沈黙に包まれた。父も母も、妹も王太子も、まるで信じられないものを見るような目で私を見つめている。
その中で、ただ一人。
部屋の隅に立つ、氷の公爵アレクセイ様だけが、その凍てつくような青い瞳をわずかに細め、私をじっと、値踏みするように、あるいは何か非常に興味深いものを見つけたかのように、観察していた。
「……寛大なるご配慮、心より感謝申し上げます。それで、いつ出発させていただけますでしょうか? できるだけ、早い方がありがたいのですが」
私のその言葉が、この長い茶番劇の終わりを告げた。
書斎を追い出されるようにして、私は自室へと戻った。扉を閉めた瞬間、今まで張り詰めていた糸が切れ、その場にへたり込みそうになるのを必死でこらえる。
足取りは、来た時とは比べ物にならないほど軽かった。心臓が、希望でどくどくと高鳴っている。
自由だ。私は、自由になったんだ。
窓辺に置かれた、あの萎れた鉢植えに歩み寄る。もう一度、そっと葉に触れてみた。今度は、ためらいも、恐れもない。私の心に満ちる、未来への明るい希望と喜びを、すべて注ぎ込むように。
すると、奇跡が起こった。
私の指先から、淡い、けれど確かな緑色の光が溢れ出す。光は植物全体を包み込み、乾ききっていた土が潤いを取り戻し、茶色く縮れていた葉が、見る見るうちに生き生きとした緑色に変わっていく。そして、枯れていたはずの茎の先から、小さな、しかし力強い緑色の新芽が、ゆっくりと顔をを出した。
その生命の輝きに、私は思わず息を呑んだ。
ああ、やっぱり。私の力は、呪いなんかじゃなかった。
窓を開け放ち、外の空気を胸いっぱいに吸い込む。視線の先には、いつもと同じ灰色の石壁。でも、今の私には、その壁の向こうに広がる、果てしない北の大地が見えるようだった。
これから始まる、私の、私だけの人生。
灰色の世界は、もう終わり。これからは、自分の手で、色鮮やかな世界を創り上げていくのだ。
遠く北の空を見つめながら、私は静かに、しかし固く、そう誓った。その時、書斎で見た氷の公爵の鋭い視線が、なぜか心の片隅に引っかかっていたことには、まだ気づかずに。
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