第8話:噂を追う者たちと、川辺を目指す者

ギルドの酒場は、相変わらず騒々しかった。


冒険者たちが交わす、粗野な言葉と酒の匂いが、空気に混じり合っている。その中で、一人の若手冒険者が、興奮した面持ちで仲間たちに話しかけていた。


「おい、冗談じゃねぇぞ!本当にそんな噂があるんだって!」


「だから、酔っ払いの与太話だって言ってんだろ。人間の頭よりでかい魚を、ただの釣り竿で釣るだなんて。んなわけあるか」


「でもよ!もしそれが本当だったらどうする?そんな少女、ただの人間じゃねぇぞ。もしかしたら、伝説のアイテムか、あるいは……」


「あるいは、何だ?」


「……伝説の剣士、とか、そういうやつじゃねぇか?」


その言葉に、周りの冒険者たちが一斉に笑い出した。剣士が、釣りを?そんな馬鹿げた話があるか。彼らは、目の前の酒を煽り、笑い声をあげた。


しかし、その笑い声の中に、一人だけ、真剣な表情を浮かべた男がいた。第7話で噂を聞いていた、ベテランの冒険者だった。


「お前ら、笑ってる場合じゃねぇぞ。もしその噂が本当だったら、俺たちはとんでもない奴を見過ごしていることになる。俺は、今日、その『伝説の釣り場』とやらを見に行ってやる」


「マジかよ、おっさん!?」


「ああ。もし本当だったら、その少女をギルドに連れてくる。そうすれば、あの不気味な事件も解決できるかもしれねぇ……」


ベテラン冒険者は、そう言うと、酒場の喧騒を背に、ギルドを後にした。彼の目的は、金でも名声でもない。ただ、この不気味な事件の真相を突き止めることだった。そして、彼の後を追うように、何人かの冒険者も、興味本位で、あるいは一攫千金を夢見て、同じ道を辿り始めた。


彼らが向かうのは、王都から北へ馬車を二時間、森の獣道を三十分進んだ先にある、人里離れた川辺だ。


道中、彼らは互いに話しながら進んでいった。


「本当に、あんな場所でそんな魚が釣れるのかねぇ」


「ま、行ってみれば分かるだろ。もし、何もなかったら、あの少女をギルドに連れて行って、話を聞いてやろうぜ」


「ああ、そうだな。俺は、酒でも奢ってやるよ」


彼らの足取りは、軽やかだった。それは、まだ彼らが、この先に待っているものが、どれほど非日常的で、自分たちの想像を遥かに超えているものかを知らないからだった。


一方、ギルドの奥にある執務室では、一人の青年が頭を抱えていた。


彼は、若きギルド統括者。彼は、書類の山と、絶え間なく続く依頼の波に、溺れそうになっていた。ペンを握りしめすぎて、指先が痺れている。目蓋は重く、視界は歪んでいた。インクの匂いと、埃の匂いが、彼の呼吸を苦しめていた。


(一体、いつまでこの状況が続くんだ……?)


彼の思考は、もはや正常に働くことができなかった。頭痛は、彼の脳を、まるで鉄の楔で打ち砕くかのように、激しく痛めつけていた。胃の奥からこみ上げてくる吐き気は、彼の全身を支配しようとしていた。


「守るべき民が、こんなにも苦しんでいるのに……私は、ただこの机の上で、紙と向き合うことしかできないのか」


彼の胸に去来するのは、絶望だった。


その時、彼の脳裏に、ふと、穏やかな川辺の光景が蘇った。


焚き火のパチパチという音。火にかけられた魚から立ち上る、香ばしく甘い匂い。その匂いは、紙とインクに塗れた今の空気との鮮烈な対比を生み出し、彼の疲弊した脳に、一瞬の安らぎをもたらした。


魚を焼き、無邪気に笑った少女。


(魚を、骨まで綺麗に食べる姿……)


その断片的な記憶が、彼の心を深く癒した。彼女は、何も知らず、ただただ、穏やかな日常を愛していた。その日常が、こんな形で壊されてしまうのは、絶対に避けなければならない。


彼は、無意識のうちに、ペンを置いた。


そして、一つの結論にたどり着いた。


「そうだ……このままではダメだ。私は、この場所から一度離れなければならない」


彼は、静かに立ち上がると、ギルドの扉へと向かった。


彼の行き先は、決まっていた。


「あの場所に行こう……。あの、平和な場所へ」


若きギルド統括者の疲弊しきった心は、ただただ、あの川辺を、そして、あの少女を求めていた。


彼は、ギルドを抜け出し、馬車に乗り、森の獣道を進んだ。


そして、ようやくたどり着いた静謐な川辺。


だが、そこには、すでに先客がいた。


彼は、目を見開いた。


そこにいたのは、酒場で噂話を笑い飛ばしていたはずの、冒険者たちだった。彼らは、川辺にいるはずの少女を探しているようだった。


「……君たち、ここで何をしているんだ?」


彼は、思わず声をかけていた。


冒険者たちは、まさかこんな場所でギルマスに会うとは思っていなかったのだろう。彼らは、驚きに目を見開いたまま、青年を見つめていた。


「そ、その、僕たちは……」


彼らの言葉は、途中で途切れた。


その時、川の奥から、エリカの声が響いた。


「あ、ハルキさん!」


その声に、青年は、一瞬、自分の耳を疑った。


なぜ、この少女が、僕の名前を……?


彼は、振り返った。


そこにいたのは、獲れたての大物を腕に抱え、満面の笑顔で走ってくるエリカだった。彼女は、魚の重さなど全く感じていないかのように、軽やかな足取りで川辺を駆け上がってきた。


冒険者たちは、その光景を呆然と見つめていた。


「あの少女が……?」「いや、ただの釣りバカじゃないのか!?」


彼らの顔に浮かんだのは、驚きと、そして、かすかな恐怖だった。彼らが想像していた「伝説の少女」とは、あまりにもかけ離れた、しかし、噂通りの凄腕を持つ、目の前の少女の姿に、言葉を失っていた。


そして、その時だった。


川の奥、エリカがいた場所から、不気味な波紋が広がった。その波紋は、まるで水底の闇が蠢き始めたかのように、静かに、しかし確実に、川全体を覆い尽くそうとしていた。それは、エリカが第5話で感じ取った、魚たちの「怯え」の正体なのかもしれない。


物語は、ここから、大きく動き始める。

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