夜想曲あるいは小夜曲

ぬるめのたおる

1

 兄弟が十数年ぶりに顔を合わせたのは、葬式場で、二人の父親の通夜の日であった。

 二人とも年月に伴う変化を大きく受けていたが、同じ血を分け合った者同士である、互いを視界に入れるや否や、すぐに姿を認め合った。そして家族の距離まで近づくと、よう、とか、おう、といった簡単な挨拶を交わした。

 兄弟は高価なスーツ姿であった。兄弟の生家は田舎であったが、就職に伴って二人とも都会へと出ていた。そして一定の成功を収め、ある程度のキャリアと財産を築いていた。兄弟の手首には煌びやかな腕時計が巻かれ、それが己の成功を互いに伝え合っていた。

 兄弟たちの再会から間も無く、葬儀屋が現れた。うやうやしい挨拶を述べる葬儀屋に、兄弟たちは軽く頭を下げた。

 そして、本日はよろしくお願いします、と言った。

 母はかなり昔に父と離婚していた。すなわち男三人で暮らしていたこの家において、遺族と呼べそうな者はこの兄弟たちだけであった。

 兄弟はともに独身であった。

 日が暮れる頃、通夜は滞りなく行われた。通夜に来た者は少数であった。そのうちの何人かは兄弟の知人であり、父を全く知らぬ者もいた。父が亡くなっているところを発見したという男性も来ていた。彼はひどく老い、そして痩せていた。兄が至らぬ点無く喪主を勤め、弟と葬儀屋がそれを手伝った。

 簡素な通夜を終えると、そこでようやく兄弟はため息をついた。兄弟は父の入った棺を囲んで座る。葬儀屋が離れると、そこは二人と棺だけになった。

 静けさに深さが増したようであった。世界でそこだけが閉じ込められたかのようだった。

 兄が高価なウィスキーの入った紙袋を取り出すと、弟はすこし驚いたような顔をした。そして彼も同じように高価な別の銘柄のウィスキーを取り出した。そして兄弟は二人で笑った。その笑い声は、まるで暗く静かな葬式場にろうそくのあかりが灯ったかのようであった。

 兄弟は遺族室に上がり込むと、ネクタイを緩めた。そしてグラスを二個ずつ並べ、ウィスキーをこくこくと注ぐ。どちらのボトルを開けたのか、二人とも全く気にする様子は無かった。華やかで芳しい香りが小さな部屋を満たした。冗談めいた声で、乾杯、とグラスをぶつけ合えば、軽やかな音が生まれて空中へと舞い上がっていく。

「立派な喪主だった。流石だよ」

「いや何をこの程度。それよりも、親父の引き取りを任せて悪かった」

「俺は医者からの連絡を受けただけさ。あとは役所と葬儀屋に言えば、大抵のことはやってくれる」

「だとしてもかなりの手間だったろう。いくらかの仕事は止めざるを得なかったはずだ」

「なに。兄貴よりも俺の方が少し近くに住んでるんだ。大したことないさ。兄貴と違って、責任ある立場じゃないからな。そもそも責任は苦手なんだ、たとえば長男とか喪主とか、さ」

「そうは言っても、今や責任は避けられない立場だろう?」

「まあ、多少はな」

 兄弟がグラスを空けるタイミングはほとんど同じであった。ウィスキーの味について二人が触れることはなかった。相手のグラスが空くたびに互いに注ぎ合う様だけで十分だった。兄弟はともに酒が強かった。

「孤独死だったらしい。匂いで隣の人が気づいたそうだ」

「死因は脳出血だったか?」

「あくまで予測の域を出ないらしいが。死後変化もかなり進んでしまっていたらしいから。しかし俺も画像を改めてたが、概ねそれで間違いないと思う」

 兄弟は、小さなアパートの一室で独り死んだ父のことを想った。その身体が腐って異臭を放つまで、誰にも気づかれなかった肉親のことを。そして、あの痩せた老人が通夜で涙を流していたことも。

 しかし兄弟は共に父親のことを語ろうとはしなかった。その話をするには、二人ともあまりに父親から離れすぎていたのだ。

 兄は空になったグラスをしばらく回していた。弟も黙ってそれを見ていた。兄にとってそれは、酒を飲んでいる時に手持ち無沙汰な時にしがちな癖であった。グラスの底面の縁をテーブルの板でなぞるようにゆっくりと回す。するとそこに溜まったわずかなウィスキーの雫がやがて舌先を濡らすくらいの水滴へと変わる。兄は再びグラスを傾け、その極めてわずかなアルコールを喉へ押しやった。十年ぶりに兄と飲み交わす弟の目には、その癖は少し新鮮に写った。

「ところで」と弟は言った「今日の葬式はなかなか良い段取りだった」そして兄のグラスにウィスキーを注いだ。

「ああ……」

 兄はまたしばらく、今度はウィスキーの入ったグラスをくるくると回した。そして一口だけ上澄を舐めると、またそのグラスを躊躇いながら置いた。

「実は、死者を見送るのは二回目なんだ」

 えっ、と弟が息を漏らした。

 夜は更に深まっていた。兄が時計を確認すると、短針はとっくに一日の境界線を乗り越えていた。その事実は、兄にますます暗闇が増すような感覚を与えていた。時計はその暗い密室の隅で、微かに歯車の音を震わせていた。

「酔っ払ってしまったようだ」

 兄はそう言って誤魔化そうとした。しかし弟の目がそれを許さなかった。

「何から話すべきなのか」

 時計の動きは短針長針ともに鈍化していた。ただ、秒針だけはいやに大きな音でじくじくと兄を責め立てた。

 兄がようやく口を開く。

「俺は、人間を食う女と付き合っていたことがあるんだ」

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