第4話 ジレンマ

「コンピュータの基礎」

 ということで習う時に、似たような話を聞いたことがあったが、その話に近いものだといってもいいだろう。

 それを考えると、

「脳神経の構造は、コンピュータの、CPUのようなものかも知れないな」

 というので、

「そうですね、でも、それでは、結局限界があると思うんですよ。正直にいえば、人間を超えることはできない」

「なるほど、確かにそうでしょうね。でも、本当であれば、一番優秀なのは人間であり、それを超えるというのは、ある意味許されないことではないですか?」

「それは、聖書などに謳われているような、神に近づいてはいけないという発想に近いといってもいいのかな?」

「そういうことになるでしょうね」

 と、この時は、その話で一晩語りつくしたものだったが、実際には、すぐに話が一周し、同じところに着地していたような気がする。

 しかし、自分たちがその着地した地点が、

「同じ場所だ」

 という意識がないことから、結局、もう一周しようとしても、同じ場所に着地しているという意識がないので、自分では、どんどん話が発展していると思うのだ。

 だから、

「この話は果てしないもので、結論が出ない」

 というのは分かり切っている。

 そういう考えは、

「無限」

 というものを自分で肯定するということになるが、それが、実は、

「同じところをグルグル回っているだけ」

 ということを分かっていないからだと決めつけるのは、違う気がするのだ。

「中には、無限というものに疑問を感じている人もいて、それが、堂々巡りを繰り返すことからきている」

 ということを分かっているのだろう。

 だが、

「実際には、まったく同じところに着地しているわけではなく、少しずつ発展している」

 と思っている。

 そして、

「その発展するある程度までくると、その無限が打ち破られ、どこかで結論に行きつく考えが生まれてくる。それが、本当のゴールなのではないか?」

 という考え方である。

 ゴールというものが、

「果たして、ループの中に存在しない」

 という考え方は、目標をもって進んでいる人間には、およそ、容認できるものではない。

 つまりは、

「ループを信じるということは、その先にあるゴールを信じるということだ」

 ということを考えながら研究を続けている教授もいる。

 彼は、子供の頃から、

「生まれてくるのが、平等であるはずがない。だから、平行線というのは、存在しない」

 という、天才的な発想を持っていたのだ。

 しかし、学生時代、そして、まだ若かったころは、その発想がネックになっているのか、

「どうしても、前に進むことができない」

 ということで、絶えず繰り返しているループを感じ、それが、

「決して無限というものではない」

 と分かっていたことから、ジレンマを感じる毎日だったのだ。

「こんなことを続けていても、らちが明かない」

 ということで、実は、

「自殺まで考えたことがある」

 のであった。

 実際に手首には、いくつかの、

「ためらい傷」

 というのがある。

 そんな、簡単に自殺をしてしまいたくなる自分のことを、

「俺のようなやつが、精神病と言われるんだろうな」

 と思っていた。

「このまま研究は続けたい」

 ということで、

「精神病認定を受けるのがこわくて、精神科の世話にはなりたくない」

 ということを思っていた。

「自分の中にある精神疾患」

 というものを、取り除くには、

「このサナトリウムしかない」

 と思い、

「この病院に戻ってきた」

 と考える人が多かった。

 というより、

「考え方の多少な違いはあるだろうが、誰も言わないだけで、皆同じ考えのようだ」

 ということになるだろう。

 実際に、昔からここにいた人は、最初から同じ思いで、結局、

「移動をしないが、実は一周している」

 ということで、

「時々、人に見えないだけのスピードで一周する」

 ということを自覚しているというのが、この病院でずっと勤務をしていたという人たちなのであった。

 また、この病院に

「交通事故」

 であったり、

「緊急搬送される」

 という患者も結構いる。

 そのどちらも、

「命の危険」

 というものを背負った人たちばかりで、そのほとんどは、近くのバイパスで事故を起こした人たちだったのだ。

 その近くの村に住んでいる人たちは、実は、

「半分は、その病院で治療を受けたひとたちだ」

 ということであった。

 実際には、

「人口が増えている」

 と言われている。

 実際の、

「県の資料」

 としては、少しずつ人口は確かに増えていた。

 ただ、住民票やその人たちを証明するものは、県にはないので、町役場で確認するしかないのだが、

「それを確認したという人はいない」

 ということであった。

 町役場に、確かめに行った人は誰もいないというが、それは、

「県の方から、禁止令のようなものが出ているからだった」

 ということである。

「あの町について、勝手な詮索は許さない」

 ということで、

「へたに動けば、国家権力に逆らうことになる」

 とまでのウワサが流れているほどだった。

 いくら、

「好奇心旺盛」

 という人がいたとしても、さすがに、

「触らぬ神に祟りなし」

 ということで、誰も、詮索しようというものはいなかった。

「昔、一人いたらしいんだけど、その人は、存在のものがこの世から抹消された」

 というくらいの話が残っているのだという。

 そこまで言われると、いくら、

「都市伝説」

 といっても、

「怖くて近寄れない」

 というのが当たり前だった。

 実際に、県の中で、

「その町の担当」

 という人が、担当になってから初めてその町に行き、数日、いろいろ確認をしてから戻ってくるということになっていたが、それが終わり戻ってくると、

「まるで別人になっていた」

 ということであった。

 昔は、口数も多く、人との会話も滑らかだったのに、戻ってきてからは、

「仕事以外のことは一切口にしない」

 という人になっていた。

 いつも、

「何か思いつめたような表情をしている」

 という雰囲気であるが、

「それこそ、町で洗脳でもされたのではないか?」

 というくらいだった。

 だが、皆着にはなっているが、それに触れようとはしない。

「禁止令」

 というものが出ていたからだ。

 なんといっても、

「ここまで人間が変わってしまった」

 という事実と、実際に出されている

「禁止令」

 それを考えると、本当に、

「触らぬ神にたたりなし」

 というのも、当たり前のことであり、

「冗談ではない」

 ということになるだろう。

 そして、そんな彼のことを、県庁の所員は皆、

「コンピュータ人間」

 と呼んでいた。

 それは、

「揶揄した」

 というわけでもなく、

「敬意を表している」

 というわけでもない。

 つまりは、

「コンピュータ人間:

 というのは、

「触れてはいけないアンタッチャブルな存在」

 ということで、位置づけている。

 それが、どこか空気のような存在ということで、

「石ころ」

 というものを、皆が感じていたのだ。

 石ころというのは、

「そこにあっても、誰も意識することのない」

 というものである。

「見えているのに、意識をすることがない」

 という不可思議なもので、

「石ころからすれば、見られているという意識はかなり強いはずなのに、見ている方からすれば、石ころからは何も感じられない」

 つまり、

「それぞれの方向からの見え方が、まったく違っている」

 ということになる。

 それこそ、

「向こうからは見えているのに、こちらからは、鏡にしか見えない」

 といってもいい、

「マジックミラー」

 というものではないだろうか。

 そもそも、

「マジックミラー」

 の原理というのは、

「光の屈折」

 というものであり、その屈折が、双方からの角度の違いで、

「向こうからは見えるが、こっちからは鏡にしか見えず、自分の姿しか確認できない」

 ということになるのだ。

 それが、

「石ころ」

 という現象への理屈として成り立つものなのかは分からないが、発想としてできないことではないということから、

「石ころ」

 という発想は、

「普通では理解しかねる」

 ということの発想として、考えるための材料として使えるのではないかと考えられるのだ。

 今回運び込まれた人も、緊急入院ということで、

「結構大変な手術だった」

 ということであったが、手術は成功し、今は、集中治療室で、意識が戻るのを待っているという状態であった。

 警察もやってきて、その身元を確認しようにも、どうやら、身元を示すものは、残っていないようで、

「身元の調査には、しばらくかかりそうだな」

 ということであった。

「とりあえず、患者の意識が戻りしたいということになるでしょうね」

 ということで、医者は、それ以上、警察には言えなかった。

 警察としても、

「いつ頃意識が戻りますか?」

 ということをいうが、

「それははっきりとはわかりません。ただ意識が戻ったとしても……」

 とそこまで言って、言葉を切った。

 刑事もそれを聞いて、

「嫌な予感がする」

 とは思ったが、今ここでそれを聞いてもどうなるものでもない。

「覚悟は必要ですよ」

 と言われているようであったが、刑事も、それ以上聞けるわけもなかったのであった。

 患者の目が覚めたということで、警察が病院に入ったのは、手術から、5日後のことであった。

「結構時間が掛かりましたね」

 と刑事がいうと、

「ええ、そういうこともありますよ。意識が戻っても、面会謝絶ということは普通にありますからね」

 と医者がいうと、

「それは、しゃべれないとか、身体が動かせないなどという問題からですかね?」

 と刑事は聞いたが、医者は、それに対して何も答えようとはしなかった。

 刑事の方としては、

「何も言わない医者」

 に対して、これ以上聞くのは愚の骨頂ということで、とりあえず、医者に立ち会ってもらっての、聞き取りに入ることにした。

 医者は、ポーカーフェイスで何も言おうとしない。

 そのことも少し気にはなっていたが、刑事としては、進むしかなかった。

 患者は、意識は取り戻していて、ベッドに寝たまま、刑事の顔を、まったく表情を変えることなく見たのだ。

「大変な目に遭われましたね」

 ということで、患者をねぎらう気持ちで声をかけたが、患者は、何も言おうとしない。

「私は、F警察からやってきた、清水というものです」

 というと、男は、軽くうなずいた。

 見た目は血色もいいようだが、まだまだ自分で思っているほどに身体を動かすということは無理のようだった。

「あなたのお名前をお聞かせください」

 と清水刑事がいうと、男は、今度こそ、表情を変えて、いかにも、いやなことを聞かれたという顔になった。

 ただ、それも一瞬のことで、すぐにそれまでの表情に戻り、また、天井を見つめている。

 今の一瞬の表情だが、少しでも気を抜いていれば見ることができなかったほどの一瞬だった。

 それこそまるで、

「本能による、条件反射ではないだろうか?」

 と思えるほどだった。

 医者の方を見ると、医者は患者を見守っているようで、刑事の方を見ようとはしなかった。

 その表情は、

「不安で見守っている」

 というよりも、何かの意思があって見つめているように見えたが、

「それが何を意味するものなのか?」

 ということは、まったくわからなかったのだ。

 医者は、次第に貧乏ゆすりのようなものをしているように感じた。

 それは、

「自分のポーカーフェイス」

 を保つための、精神的な代償が、

「貧乏ゆすりというものをさせている」

 ということで、

「この貧乏ゆすりをしているという感覚は、医者にはないのかも知れないな」

 と感じたのだった。

「医者というものは、自分たちにとって、異世界の人間ではないか?」

 ということすら考えたことがあった。

 それは、

「警察官だから」

 ということではなく、

「普通の一般人」

 ということで見た時、

「医者というのは、特殊な部類にはいる」

 と感じたからだった。

 確かに医者というのは、

「特殊な知識と技術を必要とする」

 ということであり、

「警察官には、そんなものはない」

 と思っていた。

 警察官にあるのは、

「市民の財産と生命を守る」

 という責任感だと思っていた。

 いわゆる、

「勧善懲悪の気持ち」

 というものであるが、実際に警察官というものになると、その理念や信念というものは、

「あっという間に砕け散った」

 といってもいいだろう。

 そんな警察官が、市民を守るというのは、本来であれば、

「ポリシー」

 であり、

「スローガン」

 というものである。

 それは、医者にもあるだろう。

 特に、

「生命を守る」

 ということは、職業の垣根を越えて、

「当たり前のこと」

 といってもいい。

 警察の場合は、

「被害者になれないようにする」

 ということ、これは、

「患者を作らない」

 ということであり、医者とすれば、

「意図せずに患者となってしまった人間の命を、なんとか救う」

 というところである、

 場合によっては、

「警察の力で、患者にならずに済んだかも知れない」

 という人もいるだろう。

 たとえば、

「交通事故に遭った」

 という人がいて、その人を轢いた人間が、実は、

「飲酒運転だった」

 ということで、

「酒さえ飲んでいなければ、轢かれることもなかった」

 といっていいかも知れない。

 そんな状態であれば、

「飲酒運転撲滅」

 というキャンペーンを展開しているのだから、確かに、

「酒を飲んだというのは、本人の責任であり、警察が悪いわけではない」

 ということになるが、結果として、世間では、

「警察が防げたあのでは?」

 という目で見る人もいれば、

「間違いなく、飲酒運転の被害者」

 というのが、一人はいるという記録が残ることになるのだ。

 それは、

「警察としての落ち度」

 と言われても仕方がない。

 なんといっても、

「警察は公務員」

 ということであり、

「税金で飯を食っている」

 というのは事実であり、

「警察には、捜査をする上での、一定の国家権力が与えられている」

 というのも事実だ。

 だからといって、

「警察官がスーパーマンではない」

 というのは当たり前のことで、

「事件や事故が未然に防げる」

 というのであれば、警察に対しての、不満も文句もないはずだ。

 しかし、

「何かあったら、警察が言われる」

 というのも、宿命のようなものである。

 しかも、警察には、

「上下にも、横のつながりにも、大いなる確執があり、手かせ足かせ、それぞれに、身動きが取れないという性がある」

 といってもいいだろう。

 警察官というのは、

「スーパーマンだ」

 と思われているとしても、それは理不尽であり、逆に、

「どうせ何もしてくれない」

 と思われたとしても、こちらも理不尽だ。

 しかも、その両方とも、

「思われても仕方がない」

 というところがあり、本来であれば、

「ス^パーマン」

 であるべきではないかといってもいいだろう。

 本来であれば、それだけの権力を与えるというのが正解なのだろうが、そんなことをすれば、市民の自由や権利はないに等しい。

 ということになる、

 つまりは、

「スーパーマン」

 というのは、権力を手中にしているというだけではなく、それに伴うだけの、実力というものを備えていないといけないのである。

 だから、

「能力がないのであれば、万能の力を与えるわけにはいかない」

 ということで、

「いざという時に、誰も、被害者を助けることはできない」

 ということになるのだ。

 まるで、

「専守防衛しかできない」

 という、

「憲法九条のようではないか?」

 といえるかも知れない。

 ただ、何がつらいといって、目の前で生命の危機に晒されている人間がいるのに、その人を助けることができない。

 つまりは、

「助けようとすると、自分が犯罪者になってしまう」

 ということになるというわけだ。

 これは

「警察のジレンマ」

 と言ってもいいだろう。


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