第15話 大唐 裂くべし 3)

3)

 あははははっ、あは、あははははははは・・・!

 嗚呼、あぁよく笑った、笑った! こんなに笑ったのは、いつ以来だろう?!

 すまない、朱温。驚いたろう。私がもの狂いだと思うのだろう? だが聞いておくれ、今だけ、少しだけ聞いておくれ。そなたには聞いて欲しいんだ。そのあとは私を置いて去ってもよい、あるいはここから突き落としてくれてもよい。ほら、この塔の噂話はそなたのほうがよく知っているはずだ。

 私の名は張恵という。“羅刹公主”なんて名ではない。“羅刹”はともかく“公主”というのは、天子の娘に贈られる称だ。たかが官吏の娘として生まれた私がそうなるはずがあるものか。それにもう、こんなことになってしまっているしな。

 私はこの目隠しを外せない。外したら即座にどうなるというものでもないけれど・・・いやさ、ことの起こりから、やはり最初から話さなければならないか。

 私がそなたに、最初に訊いたことを憶えておいでか?「去年の×月の××、そなたはどこにいた?」とな。あの時、私の乗る車は賊に襲われたのだ。夕べ碭山を襲ったのとおそらくは大差ない野盗たちで、柘城からもどる街道で、道中車輪が壊れたために夜中にも道を行くことになったせいで・・・

 運悪く父上も、県令の范どのも同道していなかった。ふたりがあの時いてくれたら、伴の兵士がああもあっさり逃げ出すことはなかったかも知れないものを。

 残ってくれたのは侍女たちだった。彼女たちがどうなったかは訊いてくれるな。私は憶えている。もちろん憶えていて、忘れられないんだ。

 私の物覚えは昔から早くて、実をいうとそれが自慢だった。父上に、経書や官衙の文書まで読んで諳んじたことをお聞かせして、それで悦に入っていたものだ。いま思うと・・・なんて馬鹿だったんだろう。

 とにかく私は何を見ても、一目で間違いなく憶えられる。だがあの時からそれがいっそう激しくなって、一度憶えてしまったことが、思い出さなくてもいい時まで頭に浮かぶようになった。それで、それで、それなのに忌々しいことに、あの時の賊の男たちの顔が・・・顔が、それだけが思い出せない! 憶えていて思い出せないのか、見えていなかったから憶えていないのか、今となってはよく分からない・・・

 ともかく私たちは碭山の県城へ、生きてかえってくることができた。父上が賊と取り引きしたか、なにかを代わりに支払ったのか、それとも武を以て奪い返してくれたのか、それすら私には知らされなかった。この一件まるごとを、范どのと父上でもとより何もなかったことにしようとしたからだ。

 けれどそれはうまくいかなかった。侍女のひとりが首をつり、それは賊に汚された貞節を恥じてのことだと騒ぎになった。烈女だ貞女だと褒める者もいたが、それではかえってことが明らかになる。それをまた父上がもみ消そうとして・・・

 私は思ったんだ。私も死ねばいいと、死んでおけばよかったのにと、まわりの皆は思っているんじゃないかと。父上だってそうなのではなかろうか、と。嗚呼・・・もしかしてやっぱりそうなんだろうか。

 それならいっそ死のうと思ったこともあった。だから、先に死んだ侍女・・・季という優しくて料理上手な、私より三つ年上だった彼女のことを調べた。貞女として賞するための手続きには官衙の調べが必要で、その文書が残ってたんだ。今もその文の一文字一句、なんならここで諳んじてみせることもできるよ。

 だが、調べてみて分かった。彼女は自分で首をくくったんじゃない。家族にくびり殺されたんだ! その後で、自分で首つりしたように見せかけられた。汚名をかぶったまま生きていられるよりも、死んだ方が家のためには役に立つからだ。彼女の母君はもう亡くなってる。だから朱温、そなたが兄君二人の死を知らせにいった先でもう死んでいたという、趙という娘と同じなんだ。

 それから私は色んな書を読んだ。こんな時でも称えられる女、いにしえの烈女や貞女ならどうすればいいのかって。けっきょく、死ぬことしか答えはなかった。そんなものなど読まずとも、最初から分かっていたことではあるけれど。

 それと、私たちを襲った賊についての文書も、県衙にあったもの、他の州県にあるものまで取り寄せて目を通した。読めばそれで全部憶えられる私だ。それでも、何の意味も無かった。悪党たち何人もの素性と人相を頭に刻んでしまっただけだ。中にはさっき、県衙に押し入ってきた者もいたぞ。李賀に李梠、曹勇彦だったな。でも、私自身があの時の、車を襲った男たちの顔を思い出せないのだから、何の役にも立ちはしないんだ。

 だから、やり方を変えてみた。碭山の獄に入ってきた囚人に尋問したんだ。おまえはあの時どこにいた、って。一度見れば何もかも諳んじることができる私だから、親兄弟や生まれを言ってやったら、一人目の囚人はものすごく怯えた。この目隠しをしてたせいもあった。そなたも不思議に思ったか? “羅刹”の名の通りの妖物だとでも思ったか? 私は二度も三度も同じところを見ないよう、目隠しをするようになっただけだ。一度通ったところなら闇の中でも目隠しして歩けるし、目を開けばもっとよく分かる。ほら、さっきあの馬に騎った時のように。

 とにかく、その一人目の男が翌朝には死んでいたと、あとから聞いた。怖れだけで死んだような、ひどい形相だったとも聞いた。だからといって哀れんだりはしなかったぞ? あいつは私たちを襲った賊ではなかったけれど、同じような外道な真似をほかの女子供にしてたんだ。

 けれど、二人目も同じように死んだと聞いた時には・・・恐ろしくなった。私のいまのありさまはそんなにおぞましいんだろうか。ほんとに“羅刹”の呼び名の通りに、朱髪黒身、獣牙鷹爪の化け物に見えるのか? どうなんだ、朱温?

 私だって死にたくない。いろんなところに訪れて、目隠しをせずに見てみたい。我が子を産んで抱いてみたい。

 でもそれはもう、ぜんぶ許されない。父上はずっと会ってくださらないし、ほかのみんなもそうだった。私は死ぬか、あの県衙の暗い部屋で生きているしかしようがなかったんだ。

 あそこが燃えたなら清清した。もう、もう戻らなくていいだろう? 違うのか?

 ・・・それとな、朱温。ここから尼僧が飛び降りたという噂は、根も葉もない作り話なんだ。ここにはもともと尼なんていなかった。県の文書で調べたから間違いない。私の憶えに間違いの無いこと、それは信じてくれるだろう? 男の僧者しかいない寺が廃されて、その後になぜかもろびとがそんな話を語ったんだ。

 みんなみんな女には、私のような女には、そういう終わりが相応しいって、いつも心の奥底でそう思っているんだろうか・・・? どうなんだ、朱温・・・?


 ひと息に、朱温にひと言挟ませることさえ許さず語り終えた“羅刹公主”こと張恵は、花が萎びていくように彼の足下へうずくまり、肩をふるわせて泣いていた。ほんの数刻前、今しも燃え出そうとする天蓋つきの床(ベッド)の中でとっていたのと同じ姿だった。

 朱温は彼女を助け起こす。すがるように、やっとのことで立ち上がった張恵の目元から、やまぬ大粒の涙とともに黒い目隠しがずり落ちていた。月夜の獄舎で見た時よりもいっそう大きく見える黒い瞳が、朝日のさす中にある彼の姿をくっきりと映し返している。

「なにか」ようやくにして、朱温は言った。「俺になにか、できることはあるか?」

 見上げる張恵の顔に、意外そうな色が浮かんだ。できることはあるかと問うまでに朱温も長く考え込んだが、今度は彼女がそうする番だった。ややあってついに、張恵は答えた。

「大唐を滅ぼしてくれ」

 涙を拭きながら、張恵は続けた。

「私に、私のような女に、“死ね”と言ってこない世にしてくれ。私だって役に立てる。なんでもすぐに憶えられるし、忘れないし。さっきは馬に乗ることを憶えたし、弓を引いたりすることもできるようになるかも知れない。だから・・・」

「分かった」

 朱温はそれ以上言わせなかった。足下に落ちた目隠しは拾ったが、今それで彼女の両目をふさぐことはしなかった。かわりにはっきりと、彼は言った。

「俺がこの手で、大唐を滅ぼしてやる」

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