第12話 沙陀鴉軍 3)

3)

 大堂とは県令が沙汰を下す場所である。思えば囚人としてここに引き出されるまでの間をあの牢獄で待たされていたというのに、今こうして対面しようとする相手が官吏ならぬ賊徒だというのは皮肉なものだった。

 蹄の音と喚声が近づいてくる。公主を下ろして独りで逃すべきか、と一瞬思ったが、肩に担いだ彼女の指が今はひしと自分の腕をつかみ返しているのに気づいてやめた。たとえ自分が倒されるとしても、せめてここからの出口までは血路を開いておくしかない。

「出てこい腐れ役人ども、俺が直々に殺してやる!」

 そんな怒声とともに真っ先に乱入してきたのはやはり騎兵で、仁王立ちの朱温を前にぐるりと馬頭を旋回させつつ、さも忌々しげな様子で地面につばを吐き出した。狼の毛皮を巻きつけた出立ちと大仰な手綱のさばき方は、“南詔帰り”や驕兵などよりもまったくの野盗を思わせる。頭目らしきその男は鞍から降りるや、おくれて駆けつけてきた数人の歩卒(歩兵)とともに朱温と公主をめがけて殺到した。

「来るぞ」

 肩に担ぐ公主にそう告げて剣を構えようとした朱温だったが、思いもしなかったことに、そんな彼を押しのけて盗賊たちは衙門の奥へと我先に走り去ってゆく。呆気にとられる朱温に対し、左右を駆け抜けようとする一人二人から、

「金目のものはまだ奥にあったか?!」

「出し抜いて女狙いとは上手くやったな、兄弟!」

 などと、親しげな声さえかけられる始末だった。

 我がことながら、朱温は思わず失笑しそうになった。吏服を脱いだ半裸に蓬髪、兵隊あがりと思しき鉄甲入りの鉢巻を巻いて剣を抜き、猿轡をはめた貴族の子女を肩に担いだこの風体では、彼らから同類と見られても何の不思議もないではないか。

 見張りを命じられたのだろう、その場にひとり残されて馬の手綱をとる賊の傍らを、剣を鞘に収めながら平然と朱温は通ろうとする。せっかくの実入りある時間を自分だけ逃しかねない焦りからか、その男は朱温に向かって言った。

「おい、おまえはもうここらを漁らなくて良いのか? その娘っ子だけで満足か? それなら俺のかわりにこの馬の番を・・・」

 片手をふってさも気さくな様子でそれに応えるや否や、朱温は帯鈎(ベルトに鞘をかけるフック)を引きちぎるようにしながら腰から鞘ごと剣を抜き、これをそのまま賊の延髄に叩きつけた。あえて納刀して油断を誘う、彼が安南で叩き込まれた修羅場の詐術の一つであった。

 剣を投げ捨て、昏倒した男がどうと倒れるより前に手綱を奪い取るが早いか、公主を先に乗せてから自らも鞍の後ろにあがる。彼女が猿轡の黒帯を外し、またしても目隠しにしようとするのを取り上げて、朱温は叫んだ。

「駆けるぞ公主、ふり落とされるな」

 大堂から官衙の正門たる大門までの石畳、そして官衙から県城内東西を貫く大路まで、朱温は一息に早駆けさせた。大門の内外双方で門壁にすがるように転がった骸、人馬が敵味方入り乱れた証しの足跡と血溜まり、なお明明と燃え盛りそれらの惨状を映し出す火の手が、馬上にあるがゆえの速度で彼と公主の背後へ飛んでゆく。

 どこから飛んだとも知れぬ矢や石が朱温の肩・首をかすめる。目隠しを許されなかった公主は、それでも自らの両の手で必死に目元を覆いながら、「・・・宋州下邑の李賀、李梠」「亳州譙県の曹利の子、曹勇彦」などと、またも不可思議な言葉を唱えていた。彼女の背を包むようにしながら手綱を操る朱温には、真冬の野鳥さながらに悲痛なほど身を縮こまらせた公主の様が、肌身にはっきりと感じ取れていた。

 だが今は声をかける余裕もない。県宰や郭を探しに向かった老盧に合流し、彼らに公主を引き渡しさえすれば良い。その一念で駆けに駆けた朱温はついに大路にたどり着き、しかし、そこで我知らず馬の脚を止めていた。

 そこには碭山県城の小さな鐘楼(時刻をつげる鐘撞き堂)が、炎にまかれながらなお往来の真ん中に立っていた。ここにもやはり徐州の驕兵か、それに唆された周囲の野盗か、はたまたそれらに唆されて内通した弓手(県が使役する治安要員)なりが、真っ先に火を放ったに違いなかった。

 そして何者であったにせよ、その下手人もいま鐘楼の周りにうずたかく重なる屍の一つとなってしまっているのだろう。少なくとも朱温にそう思わせるほど、大路の中央で文字通り山と積まれた死体の数は常軌を逸していた。乱入した賊も、坊から迷い出て巻き込まれた城民も、抵抗しようと武器を手にしたらしき官兵も、それぞれ息の根を止められてその中でないまぜにされていた。老盧に老郭、劉県宰の首もあった。

 “京観”と呼ばれる、敵の骸を積み上げる古い戦場の習わしであった。そこへ今しも新たな首が鞠のように投げ込まれている。そして鐘楼と屍の周囲で、一群の騎馬がぐるぐると舞うかのような旋回を続けていた。朱温がこれまで見たこともない黒ずくめの一団で、鬨の声とも喚呼とも知れぬウラ・ウラというかけ声を上げている。何騎かがかかげ靡かせている軍旗は、見紛いようのない大唐のそれだった。

「あれは沙陀突厥だ」出し抜けに公主が言った。「いいのか朱温。ここでこうしているままなら、私たちも殺される」

 その言葉と、黒い騎兵の何人かが馬上からこちらに気づくのは同時だった。手綱を返し馬の腹を蹴って、今度は東門へ向け朱温は馬を疾駆させる。一瞬仰ぎ見た東の空は、夜明けにははるか遠かった。


 この日、宋州の東の徐州では、驕兵の頭目龐勛らがその開城を迫っていた。朝廷の争議は定まらず、これを討伐せよとの詔勅が出されるまでにはなお時間を要した。

 ゆえにこそ、それに先駆けた一隊があったなどとの記録はない。彼らが近隣の一県で賊と民との区別なく鏖殺と掠奪を働いたなどとは、後世誰も知り得ない。

 しかしこの夜が明けるまでに、大唐の行く末ははっきりとある方向へ進み出すことになる。それを定めたのはこの時に馬上で手綱をとる朱温こと後の朱全忠、ではなく、彼に矢石から庇われるばかりの“羅刹公主”張恵、すなわち後の彼の妻、元貞皇后張氏であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る