第6話 羅刹公主 3)

3)

 苔むした牢格子の狭間と獄舎の壁の小さな窓を通して、朱温は月の光を見ていた。

 詩才があれば自ら一句ひねるなり、古人の名句を思い浮かべて唱うなりできたかも知れない。しかし彼にそれは無く、何とも知れない獄中の塵埃と青白い光が交わり舞うさまを、あぐらをかいて凝然とただただ仰ぎ見続けている。蓬髪とたくましい筋骨が無ければ、禅にうちこむ仏僧のようにも映ったろう。孤独であっても無為の時を過ごしても、胸のうちや脳裏に浮かぶらちもない考えを必要なら締め出してしまえるというのが、この時までの彼という若者であった。

 東西南北、碭山県城の四囲の門はとうに閉じられており、官衙(役所)の入り口も火急の用無くして夜明けまで開かれることはない。いまもし城内の往来を歩く者があれば、それだけで夜禁の犯を問われかねなかった。遠く城外から届く野獣の遠吠えと、衙内あちこちの草むらで遠慮がちに奏でられる虫の声が、遠近の距離を隔ててともに牢まで響いていた。

 やがて、いつの間にか寝そべって眠りに落ちていた朱温は、中庭で短くあがった悲鳴にはたと目を覚ました。月には雲がかかり、牢の窓には陰がさしかかって、わずかな松明を灯しただけの獄中はより深い暗闇に占められている。

 かんぬきが外される音と冷めた外気の流れ込む気配とで、入り口の開かれたことが確かに分かった。先ほどの悲鳴の主らしき小郭――郭の甥であるという若い門吏が、何やら地に伏したまま必死に許しを請う声がする。

 朱温の牢は獄舎の奥、その片隅に在った。これまでに出会った他の囚人は、盗みやたかりの明らかな罪で早々に笞(鞭打ち)・杖(棒打ち)を加えられた上で放たれ、いままた獄の住人は彼独りになっている。そこへ立ち入るということはすなわち自分にこそ用があるということで、しかもその気配には連れ立つ灯りや足音がまるで無い。

 たった一人の何者かが間違いなく自分一人を目がけて音もなく歩んできているという事実に、朱温も首筋から総毛立たせた。牢格子から身を離し、思わず自分の懐と腰を探るも、もちろんそこに得物は無い。やむなく鉄甲入りの鉢巻を解き、利き手の拳に半ばほど巻き付けて、革紐の残りを左手で握る。相手の一太刀めを弾いてあわよくば締め殺すための構えだったが、牢の中ではさしたる意味があろうとも思われなかった。

 そうして眼前から目を離したほんのひと呼吸の間に、その闖入者は格子を挟んで朱温と正対するところへ立っていた。赤い唇と白い口もと、黒い前髪の生え際とその下のやはり真っ白なひたいだけが、暗闇の中にぼうと浮かんでいる。つまりは目の無い女の顔がだしぬけに格子越しに現れたのであり、朱温が声を上げずにすんだのはただただ驚きが並外れていたからに過ぎなかった。

「ほう、叫ばんのか」

 沈黙を彼の胆力の現れと解したらしく、唇がそう口をきいた。

「これまでの罪人はまずわめいたぞ。そなたは違うということか、宋州碭山午沟里は朱誠の子、朱温。いやさ、朱三と呼ぶか?」

「なぜそれを」そこまで畳みかけられては、朱温も呻かずにはいられなかった。「どうしてそこまで、俺のことを知っている」

 唇と口もとが、得意げな表情を作る。そこでようやく朱温にも目の前の奇怪な眺めが理解できた。

 目の無い女の、顔だけの妖物。獄舎の闇の中でそう見えたのは、上着から裙子(スカート)まで深緑でそろえた年若い女だった。本来上質な衣装のその色が、意図してか否か黒髪とともに暗がりに溶けこんで、その身体を無きもののように見せかけていた。そこまで分かってもなお尋常でないのは彼女が黒絹の細帯で自らの目を覆っていることで、これまた闇に同化したその目隠しが、彼女の顔から目もとだけを横真一文字にかき消しているのだった。

「私の目を見て、よう答えよ。去年の×月の××、そなたはどこにいた?この宋州ではないのか?」

 女がわずかに目隠しを下へずらせる気配があった。それでも、窓からのわずかな月光を彼女自身が背にしているため、朱温の夜目でもその面立ちをしかと確かめることはできなかった。かろうじて見えたのは双眸に映る光で、それで女が一つ目でも四つ目でもないことだけは分かったが、驚くほど大きなその光には静かな怒気があふれており、夜の荒れ野で群狼と対した時のような恐ろしさを朱温のみぞおちに走らせた。

「偽らず言え、どこにいた?」

 朱温は答えた。

「帰ってくる途中だった、この宋州に。まだずっと南にいて、江(長江)も渡っていなかったはずだ」

「そうか。ではどこからだ?」

「・・・なに?」

「南と言ったろう。それはどこだ。包み隠さず言え」

 数瞬の朱温の沈黙を今度は拒絶ととったらしく、声に苛立ちが加わった。

「隠すか、蕭県劉家村の無頼、狗屎堆(鼻つまみ者)の朱三。こちらはそなたのことは万事、一族に至るまでお見通しだぞ」

 それでも朱温は答えなかった。だがややあって前へ一歩、牢格子に身を近づける。鉢巻の端を握っていた左手で己が額を指差し、口を開き、そこから一気にまくしたてた。生まれてから今までの彼にはおよそ無かったことに、奔流のように胸の底から言葉が湧いた。

「この入れ墨が見えるだろう。高都督の十の“火(十人の部隊)”で入れられた、“玄女神兵”の四文字だ! なんでもお見通しなんだろうに、わざわざ自分で言わせたいのか? それなら俺が言ってやる。俺は碭山朱誠の三男、朱温だ。親父が死んでからは小作暮らしで、家族で劉家に移って、それからは何かもめちゃくちゃだった!

 何度も暴れたし何人も殴ったが、天地に誓って言う、女子供と年寄りは傷つけちゃいない。だがそれで田舎にいられなくなって、歳を誤魔化して募兵に応じて南の果ての安南まで送られて、蛮族どもと戦ってきたんだ! こうして墨をここに入れられて、それでも、それでも高都督の下で何度も手柄だって立てたんだ。

 それが、×月に宋州にいたかだって? そんなわけがあるか! ついこの前にやっと帰り着いて、修羅場と帰りの道中で死んだ友達の形見をその家々に配って回って・・・最後に趙兄弟の妹の、嫁ぎ先に行ったんだ。歓迎されないのは分かってた。分かってたが・・・

 その子は幸せに嫁へ行ったんじゃなかった! 父親の後妻から嫌われて、売られた先で難産して死んだんだ。嘘じゃない。小さくて粗末で供え物の跡もろくにない、うずくまった犬みたいなみじめな土饅頭を俺がこの目で見て、趙兄弟の残した銭でありったけ紙銭(死者に捧げる紙製の銭)を買って焼いた!

 その後のことも知ってるんだろう? 後妻の兄とやらの差し金で、俺は今こうしてここにぶち込まれているんだぞ?! だから、だから・・・!」

 いまや朱温は格子越しに身を乗り出し、妖物ならぬ女の肩を両の手でつかんでがなり立てていた。それは、こめかみを突き破るような憤怒から我知らず取った動きだったが、その怒りがするすると吊桶(つるべ)のように沈んでいくのを、目隠しを落とした女を前に朱温自身が感じていた。かろうじて、朱温は言った。

「・・・だから、あんたの言う時に、この宋州にいなかったのは確かだ」

 朱温の両の手の甲に、女の流す滂沱の涙がぼたぼたと落ちていた。彼女は抗おうともせず、頭ひとつは高い彼を見上げながら泣いている。嗚咽することなく、ただただ涙だけ流していた。彼女の眉目を朱温はようやくたしかに見ることができ、かっと開いたその瞳の中に自分の顔が写りこんでいることさえみとめた。

「そうか。その娘も」

 目隠しの女、“羅刹公主“は言った。

「その娘も、哀れな子だったのだな」


「朱三、無事か朱三。そこで息をしているのか、おぬしは」

 “公主“が朱温に背を向けて獄舎を出、さながら影のように静かに中庭を通りすぎて去ったあと、たっぷりと間をおいてから盧と郭が牢の前に駆けつけた。それは彼らが彼女についてとうから知っていたことの証しであったが、朱温はそれを咎めず、また、自分もその噂をわずかながら見聞きしていたことを隠さなかった。

「あれが“羅刹公主“か。たしかに最初は、魂魄でも抜かれるかと震えたが」

「知っていたのか、おまえ。わしらの話でも聞いていたか」

 悪びれもせず郭が呟き、盧が続けた。

「そうだ。前の州刺史(州の長官)、張長官の小姐(令嬢)だが、あの通り幽鬼のごとくになられてはや一年たつ。この官衙の、ほれ、県令閣下の後院と城隍廟との間に一室を借りて住まわれとる。いったい、何の病とも知れんが・・・」

「おまえのような若い囚人が」さらに早口で郭が言う。「この獄の中でこれまで二人、“公主“から何事かを訊かれてな、傷ひとつないままおっ死んだのよ。翌朝見つかったそいつらの顔は、そりゃもうこの世のものとは思えん顔つきじゃった」

 牢の中でそれらを聞きつつも、朱温は己が手を確かめるように見つめていた。“羅刹公主“の涙が濡らした手の甲だった。

「以来小姐には“羅刹公主“の名がついた。お付きの老婢女以外には口をきく相手もろくにおるまい。お姿を見たのは俺も、何月ぶりか分からんわ」

「よく無事であったな、朱三。おまえ、何か訊かれなかったのか?」

「訊かれはしたが」額の入れ墨も晒したまま、朱温は上の空な様子であった。「違う、と答えただけだ。それより、老盧に老郭、俺から訊きたいのだが」

「なんだ?」

「何なりと言え」

 成り行きしだいでは朱温の亡骸を見つけていたかも知れない二人は、今さらな後ろめたさからか、気遣わしげに朱温の言葉を待った。

「ここで俺がこうしていれば、また“公主“に会えるだろうか?」

「なんだと?!」

 郭は頓狂な声をあげ、そのまま数瞬もの間、口を閉じられずにいた。気がつけば傍らに来ていた小郭も、彼らの話を聞いていたのか、改めておどおどと左右を見回している。

「おまえ・・・おまえというやつは」盧もあきれ顔を隠せなかった。「おまえはきっと、女難で身を滅ぼすぞ」

 

 朱全忠とその夫人、元貞皇后張氏の出会いは、本来このようなものであった。後世それが正しく記録されなかった理由は数多あるが、もっとも大きな原因は直後に彼らを見舞う戦乱であった。

 その名を龐勛の乱という。かつて朱温もいた南詔との戦場から、大唐を揺るがす乱の一波が、彼のあとを追うようにこの時河南に迫っていた。


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