大唐 裂くべし ①(龐勛の乱 編)
@Jtaitei
第1話 小伙子 1)
1)
江州の僧侶、釈某は次のように語った。
拙僧は江州青山寺の僧、釈と申します。いや、我が寒山(自らの属する仏寺・僧院を謙遜して言う語)をご存じないのも無理はありませぬ。先の武宗の御代にて仏法が退けられました折、廃寺の憂き目にあいまして、以来拙僧も諸国を巡り食を乞うばかりにございます。
お訊ねの小伙子(若者)に拙僧が出会いましたのは、江(長江、揚子江)を下る船上でございました。同様の者四人と連れだって、晴れであれば甲板に、雨となれば船倉近くのもっとも安い場所に、身を寄せ合うようにしておりました。いずれも戦帰りの血気をくすぶらせながら、そのいずれもが五体のどこかに傷を負うた、喩え通り“手負いの獣”の小さな群れのようでありました。
ええ、ええ。あのような長行(遠征)帰りの者には、常の船客の目は冷たいものでございます。官衙(政府、役所)が船をしたててやり、彼らだけで故郷への船旅としてやれるものなら、それはそれは楽しげでにぎやかな様子になり、先々で船のもやう港にも存分に銭を落としていくものですが、あの時の五人はそうではなかったのです。
もちろん剣や弓矢のたぐいを持ってはおりませんでしたが、鎧はまだ身につけていたり、頭陀袋の中に入れている様子でした。五人にとってはそれが、なけなしの銭や布帛(銭に替わって給与となる絹織物)以外には唯一の財産だったのでありましょう。
お訊ねの一人はそうした者の中でも、どちらかと言えば、言葉少ない男のようでありました。ともがらたち、見るからに丈高く、巌のような巨躯の者もいる四人の中におりますと、いささか頼りなさげにも見えたのですが、彼らから軽んじられている風でもなく、僚友の大げさな一喜一憂を傍らで静かに眺めている風でした。
さて拙僧とその小伙子がじかに言葉をかわしましたのは、鄱陽湖から流れ込む潮が江に入ってくるあたりでした。そのころ湖の上流ではひどい雨がふった後と見え、哀れにも屍があるいは浮き、あるいは沈みしながら船とともに江をくだっておりました。一つ二つというのでなく、家族もろとも流されて息絶えたかという固まりもありました。
嘆かわしきことに、ああした水屍(水死体、土左衛門)を見ましても、いまや船客も船頭もさして心動かされはせぬのです。ただその長行帰りの若者たち、彼ら五人だけがとある夕刻、浮き沈みするそれらの屍を船べりからまんじりともせずに眺めておりました。あの年頃の者が集うと、むごい死体にさえ遊び半分、石を投げるやらの狼藉を働く輩が出るもので、とりわけ屍の中に女の白い柔肌でも見えれば、それはもう語るをはばかるような有り様となるのですが、彼らはそうした真似もせずただただそれを見送っていたのです。
拙僧はせめてと思いまして、経の一節を波間に向かって唱え始めますと、いつのまにか彼らは船倉へ降り、ふと見ればかの一人のみが甲板に残っておりました。先ほどはその友らに比べて頼りなげと申しましたが、さすがにひとり間近に立たれてみますと、長行帰りの隆とした骨相や黒々とした蓬髪の勢いに、拙僧の痩せ枯れた身体など気圧されるような思いがしたものです。そうしていささか気づまりな時を、波の十か十五ほどもが船べりを洗うてゆくあいだ過ごしておりましたところ、だしぬけにその小伙子が「御坊(僧侶への敬称)」と声をかけてきたのです。
いわく、「死人に経を唱えてやったら、何のよきことがあるのか」、「自分らは南で多くの敵人を殺めたが、そのような者が経を唱えても意味があるのか」、などなどといった事柄であったと思います。河南あたりの訛りで、仏道をからかおうとか因縁をつけようとかいったものではなく、ただただ、思ったことを口に出して問うてみたという風情でございました。
拙僧としましては、まこと意外な者から仏心の生じる場に出会えた、と思ったものです。とはいえにわかに御仏の教えや経を諳んじさせんとしても詮ないこととは分かっておりましたので、その時はただ、両の手をこう、合掌するよう教えました。日も暮れ、かの水屍たちが見えなくなるまでにさして時はございませんでしたが、拙僧とその小伙子はそれまで並んで合掌しておりました。
・・・しかし、ことが突然起こりましたのは、江も大海への入り口に近づき、船が揚子県にも間近な桟橋へ着こうとする朝のことでした。
五人のうちの一人、魯という名の大男が朝となっても目覚めなかったのです。新たな傷も争ったあともなく、ただただ文字通り眠るように、目覚めぬまま船倉で死んでおりました。激しい鉄火場からもどった者の中には、このような最後を迎える者がまま居りますこと、この数年というもの江を東西に行き来してきました拙僧は、何度かこの目にして参りました。竹と違っていかなる雨風にも小揺るぎしなかった大木が、ふとあっけなく折れて倒れてしまうようなものなのです。
まわりは大騒ぎとなりました。このような折、船というのはややこしく、面倒に巻き込まれることから逃れんとする者が、ここで降ろせの、今すぐおかに着けろのと、いらぬ騒ぎまで起こすものです。
これも仏縁の導きと思い、拙僧は衙門(行政府、役所)の調べが入るまで彼らにつきそうておりました。経も唱え、おかげで残る四人からいくばくかの施しを渡されました。ええ、ええ。もちろん、施主(仏僧・仏寺に施す者、寄進者)からいただくものにためらうことはありませんとも。
一通りことがすみますと、熊のような魯の亡骸をどうにかしてやらねば、ということになりました。これについては船の中であれこれの材木もあったことが幸いし、船匠にこれまた四人が銭を払って、あり合わせに棺をこしらえて魯をその中に納められたのです。いや、魯の亡骸の回りで板を組み、どうにかこうにか棺らしく仕立てただけというのがまことでありましょうか。
それでも、なおも冷たい船客や船着き場の人々のまなざしを浴びながら、友の棺を背負って降りる四人の若者の姿には、枯れ果てた拙僧の胸さえ打たずにおかないものがありました。あの小伙子、鉄甲入りの鉢巻きを額に結んだかの若者は、棺の四隅の後ろを担いつつ、船に残る拙僧を認め目礼して去りました。彼ならほんのひと時でも正しい経を耳にすれば、あるいはそれを諳んじ得たかも知れぬと、その時拙僧は思ったものです。
して、大人(官吏への敬称)、かの小伙子、朱三という名であったかと思いますが、あれは何事かしでかしたのですか?
ええ、ええ。
おっしゃる通りにございます。実のところ私はろくに文字も読めぬ偽沙門(偽の僧侶)にございまして、今も昔も正しい経など唱えられためしはないのですが。それでも、それでもあの若者には、どこか見るべきところがあると思ったというまででございます。
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