第14章 二つの舞台の始まり
1 九月の風
夏休みが終わり、九月の風は少しだけ涼しかった。
教室の窓から差し込む光は柔らかく、汗の匂いよりも鉛筆の木の香りが濃い。
それでも俺の胸は落ち着かなかった。
サッカー部は全国大会の予選突破を果たし、次は本戦。
「ここからは一つも落とせない」と監督は言った。
同じ週、早苗には大手事務所の公開オーディションの通知が届いていた。
「プロの登竜門」――ポスターにはそう書かれていた。
二つの舞台が、また同じ時間に並んで待っていた。
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2 音楽室の決意
放課後。
音楽室の窓は夕日を受けてオレンジ色に染まっていた。
早苗は楽譜を広げ、声を重ねる。
「蒼太、今度のオーディションは本当に大事。……絶対に来てほしい」
「分かってる」
俺は鍵盤に触れながら答えた。
でも心の奥では、サッカーのスケジュールと重なっていることを知っていた。
黒瀬が譜面を閉じ、真剣な顔をした。
「俺が伴奏することもできる。でも、彼女が求めてるのは相馬だろ」
その言葉が胸に刺さる。
俺はうなずくしかなかった。
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3 グラウンドの檄
夕方のグラウンド。
監督の声が響く。
「全国は甘くない! 一つの迷いが敗北を呼ぶ! 全員、覚悟を持て!」
仲間の視線が一斉に俺に集まる。
「相馬、頼むぞ」
「お前の走りがカギだ」
期待と圧力が重なる。
でも俺の胸には、もうひとつの声が響いていた。
――「来てね。振り向かせるから」
――「絶対来て」
二つの言葉が、同じ鼓動を引っ張っていた。
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4 川沿いの約束
その夜、川沿いで早苗と会った。
風は少し冷たく、夏の名残と秋の気配が混じっていた。
「蒼太」
「ん」
「また言うね。……好き。何回言っても、同じ」
八度目の矢。
俺は目を逸らさなかった。
「俺も好きだ。だからこそ、迷ってる」
「サッカーと歌?」
「そう。どっちも大事なんだ」
彼女は小さく笑った。
「じゃあ、両方取ればいい。蒼太ならできる」
その声は揺るがなかった。
けれど、時間だけは待ってくれない。
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5 黒瀬の背中
翌日、黒瀬に呼び出された。
「相馬。俺はもう迷わない。音大に行って、ピアノで勝負する」
「……すげぇな」
「でも、俺はお前に嫉妬もしてる。早苗を好きなことも、伴奏で響き合うことも」
黒瀬は苦笑した。
「だからこそ言う。逃げるな。お前が逃げたら、早苗は歌で泣く」
その言葉に、俺はただ頷いた。
黒瀬の背中は、もう未来に向かっていた。
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6 前日の夜
全国大会とオーディションの前夜。
机の上にはスパイクと譜面が並んでいた。
汗でにじんだ紙の端。
〈高校生になったら、ちゃんと気持ちを言う〉
その文字はもうほとんど読めなかった。
俺は紙を握り、深く息を吸った。
「もう逃げない」
声に出すと、胸の奥で何かが固く結ばれた。
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7 二つの朝
大会の朝、グラウンドは早くも熱を帯びていた。
笛の音が遠くで鳴り響き、仲間の声が重なる。
同じ時刻、ホールではリハーサルが始まろうとしていた。
早苗はマイクを握り、黒瀬がピアノに手を置いている。
「蒼太、来てくれるよね」
彼女は心の中で呟いた。
信じていた。
でも時計の針は、無情に同じ方向を指していた。
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8 交差する鼓動
試合のホイッスル。
オーディションの開演ベル。
二つの音が、同じ時間に鳴り響いた。
俺はピッチを走りながら、もう一つの舞台を思い描いた。
早苗はステージで、俺の伴奏がないまま歌い始めた。
黒瀬が支え、観客が息を飲む。
二つの鼓動が胸で重なり、苦しくなる。
でも、どちらも俺のものだった。
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9 最後の一分
後半終了間際。
スコアは1−1。
ボールが俺に回ってくる。
仲間の声が響く。
「相馬、行け!」
同じ瞬間、ステージでは早苗がサビに入っていた。
――「届いて、あなたに」
俺はボールを前に押し出し、全力で走った。
靴紐の結び目が汗で重い。
でも、解けてもまた結べる。
俺はその結び直し方を、もう知っている。
シュート。
ネットが揺れる。
歓声が爆ぜる。
同じ瞬間、早苗の声がホールを満たし、拍手が波のように押し寄せていた。
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10 未来への橋
試合後。
俺は汗にまみれたまま、自転車を飛ばしてホールに向かった。
着いた時にはアンコールが始まっていた。
黒
交わる視線
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1 勝利のあとで
試合終了の笛が鳴った瞬間、グラウンドは歓声に包まれた。
「やったぞ! 全国だ!」
仲間たちが肩を組み、監督が空へ拳を突き上げる。
俺も確かに喜びを感じた。
でも胸の中にはもうひとつの熱があった。
――早苗の声。
喜びの輪から抜け出そうとした瞬間、キャプテンが俺の腕を掴んだ。
「おい、相馬。どこ行く」
「……用がある」
「用? これから打ち上げだぞ。全国に出るんだぞ」
俺は一瞬迷った。
けれど、唇が勝手に動いた。
「行かなきゃいけない場所があるんだ」
キャプテンの目が怒りで揺れる。
「またかよ……」
仲間たちのざわめきが背に突き刺さる。
それでも俺は腕を振り払い、バッグを掴んで走り出した。
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2 ホールの終わり
オーディションの会場。
拍手が続き、早苗は舞台の中央で深く一礼した。
ライトの熱と汗で頬は赤く、喉は焼けるように乾いている。
でも胸の奥は澄み渡っていた。
袖に戻ると黒瀬がタオルを差し出した。
「よくやった。……最高だった」
「ありがとう。黒瀬くんが支えてくれたから」
黒瀬は少し笑って、視線を横に向けた。
「ほら」
早苗が顔を上げると、袖口に蒼太が立っていた。
ユニフォームのまま、汗に濡れ、泥のついたスパイクを片手に持って。
肩で息をしながら、それでも笑っていた。
「間に合わなかったけど……来た」
早苗の胸に、熱いものが一気に込み上げた。
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3 楽屋で
観客が帰り始め、ホールのざわめきが薄れる。
楽屋には三人だけが残っていた。
早苗はペットボトルの水を飲み干し、蒼太を見つめる。
「勝ったの?」
「勝った。全国に行ける」
「……すごい」
黒瀬が椅子に腰を下ろし、息を整えながら言った。
「こっちも良い結果が出ると思う。審査員、かなり頷いてた」
沈黙が流れる。
三人の呼吸が、少しずつ整っていく。
蒼太は言った。
「俺……もう逃げない。サッカーも、音楽も、両方やる。欲張りでも、臆病でも、それが俺だから」
早苗は微笑んだ。
「うん。……それでいい」
黒瀬はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。
「俺も決めた。俺は俺で、音大を目指してピアノを極める。……二人とは違う形で、また同じ舞台に立つ」
その瞳は澄んでいて、悔しさも含んで、でも前を向いていた。
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4 川沿いの夜
会場を出て、三人で川沿いを歩いた。
夜風は涼しく、街灯が水面に揺れる。
「相馬」
キャプテンの声がスマホから飛び込んできた。
〈裏切るなよ。全国はお前なしじゃ勝てない〉
胸が痛む。
でも、横を歩く早苗の横顔を見て、決意は揺らがなかった。
「俺は逃げない。両方やる」
小さく呟いた声は、川の流れに消えた。
早苗は耳に届いたのか、ただ微笑んで、小指を差し出した。
「じゃあ、また更新。全国でも、オーディションでも、一緒に走ろう」
俺はその小指を握り返した。
黒瀬は少し後ろから二人を見て、静かに目を細めた。
三人の影が、川沿いの道に長く伸びていた。
それぞれの合格発表
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1 合宿の朝
全国大会に向けた強化合宿が始まった。
朝五時の集合。まだ空気に夜の冷たさが残っているグラウンドで、監督の声が響く。
「走れ! 全国に行くやつは、こんなもんじゃ息切れしない!」
仲間の靴音が一斉に芝を打ち、汗がまだ乾かぬうちに次のメニューが始まる。
ボールを追う足は重くない。
でも、胸の奥は別の重さを抱えていた。
――今日の午後、オーディションの合格発表がある。
走るたびに靴紐が揺れる。
結び目が解けても、また結べばいい。
そう言い聞かせながら、俺は息を吐いた。
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2 オーディションの朝
同じ頃。
早苗は鏡の前で呼吸を整えていた。
窓の外からは蝉の声がまだ名残のように聞こえる。
スマホの画面には公式サイトのリンクが貼られている。
〈発表 14:00〉
「あと数時間……」
喉を軽く鳴らす。
歌える準備はできている。
問題は、合格か不合格か。
けれど胸の奥には、不思議な静けさがあった。
――蒼太が“逃げない”って言ってくれたから。
黒瀬がメッセージを送ってきた。
〈14時、俺も一緒に見る。結果がどうでても、また練習しよう〉
早苗は微笑んだ。
〈ありがとう。……でも受かってるって信じてる〉
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3 合宿の緊張
午前の練習が終わり、昼休み。
監督が集めた。
「午後は紅白戦だ。スタメン候補を決める。気を抜くな」
仲間たちの視線が集まる。
キャプテンが俺の肩を叩いた。
「相馬、さっきの動き、悪くなかったぞ。午後も頼む」
「……ああ」
言葉は返したけれど、頭の中では時計の針が迫っていた。
〈14:00〉――。
ピッチの真ん中で、ボールを追いながら、別の舞台を思っていた。
全国大会の夢と、早苗の夢。
二つの光が胸の中で交わり、足の動きに熱を与える。
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4 発表の瞬間
14:00。
早苗は自室の机に座っていた。
黒瀬がビデオ通話を繋げている。
「行くぞ」
「うん」
指先が震えながらも、リンクをタップする。
画面に一覧が表示され、目が文字を追う。
〈合格者一覧〉
――あった。
『早坂早苗』
一瞬、呼吸が止まった。
次の瞬間、涙があふれた。
「……やった……!」
黒瀬が笑顔で頷いた。
「おめでとう。本当に、おめでとう」
早苗はスマホを握りしめ、真っ先に思った。
――蒼太に伝えたい。
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5 紅白戦の中で
同じ時間。
俺はピッチを走っていた。
相手に押され、ボールがこぼれる。
とっさに飛び込み、足先で繋げた。
「ナイス!」
仲間の声。
監督の笛。
時計は〈14:05〉。
俺はベンチに呼ばれ、水を受け取った。
ポケットの中のスマホが震えているのを感じた。
――結果だ。
でも今は開けられない。
ここで目を逸らせば、チームを裏切る。
胸が焼けるように熱い。
けれど、ボールを追う足は止めなかった。
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6 届いたメッセージ
紅白戦が終わり、夕方の光が差し込むグラウンド。
シャワーを浴び、ロッカールームでスマホを開いた。
通知が何件も並んでいる。
『合格した!』
『蒼太、やったよ!』
『夢に一歩近づけた!』
画面の文字がにじんだ。
声が出なかった。
ただ、笑った。
疲労で震える手の中で、スマホの光がやけに鮮やかだった。
〈おめでとう。信じてた〉
そう打ち込んで送った。
数秒後、返事が返ってきた。
〈ありがとう。……全国も絶対勝ってね〉
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7 三人の夜
その夜、川沿いで三人が集まった。
夜風は涼しく、川面に街灯が細かく揺れている。
「合格、おめでとう」
俺が言うと、早苗は笑った。
「ありがとう。蒼太のおかげだよ」
「違う。お前の声が掴んだんだ」
黒瀬が腕を組んで言った。
「二人とも、まだ始まったばかりだ。俺も音大に向けて走る。……だから、次はもっと大きな舞台で三人で会おう」
沈黙のあと、三人は笑い合った。
それぞれ違う夢に向かいながら、同じ川沿いの風を吸い込んでいた。
未来へのキックオフ
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1 開幕の朝
全国大会の初戦の朝。
宿舎の窓から差し込む光は、夏よりも少し白く澄んでいた。
ユニフォームを着込み、スパイクをバッグに入れる。
胸の奥には緊張と、別の熱が同居していた。
――今日から始まる。
俺の全国も、早苗の夢も、黒瀬の挑戦も。
廊下の先でキャプテンが声を張る。
「行くぞ! 俺たちのサッカーを全国に見せてやろう!」
仲間の声が重なり、響き渡った。
俺は拳を握った。
「逃げない」
小さく呟いた言葉は、心臓の奥で跳ね返った。
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2 早苗の第一歩
同じ朝。
早苗は事務所ビルの前に立っていた。
白いワンピースではなく、少し落ち着いたジャケット姿。
合格者向けの説明会と、初めての仮契約。
「これが……始まり」
ガラスのドアに映る自分を見つめる。
その背中には、蒼太の「信じてた」という文字が今も灯っていた。
黒瀬から届いたメッセージを開く。
〈俺も音大の願書出した。逃げないって決めた〉
胸が熱くなる。
――三人とも、それぞれの道を走ってる。
その実感が、不安を支えてくれた。
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3 試合開始
スタジアムに立つと、観客席のざわめきが波のように押し寄せる。
笛の音。
ボールが転がり出す。
相手は強豪。
パスの精度、当たりの強さ、すべてが今までと違う。
だけど怖くなかった。
むしろ、燃える。
仲間の声が飛ぶ。
「相馬、上がれ!」
「行け!」
足が自然に動く。
汗が目に入る。
視界の端で、川沿いの夕暮れを思い出す。
早苗の声が響いてくる気がした。
「……届いて」
俺はボールを前に押し出し、走った。
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4 新しい舞台裏
早苗は事務所のスタジオで初めてのレッスンを受けていた。
発声、姿勢、マイクの使い方。
プロの講師が細かく指摘する。
「君の声は伸びやかだ。でも、その分、体がブレやすい。軸を意識して」
息が苦しくなり、汗がにじむ。
それでも早苗は笑っていた。
「もっと強くなりたい。もっと届かせたい」
休憩時間にスマホを見る。
〈前半0−0。押されてるけど、まだいける〉
蒼太からのメッセージ。
〈頑張って! わたしも頑張る〉
指先で文字を打ちながら、胸が熱くなった。
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5 黒瀬の挑戦
黒瀬は大学の練習室にいた。
願書を出したばかりなのに、もう鍵盤に向かっていた。
バッハの平均律。
指先が鍵盤を走り、汗が額に落ちる。
「ここからだ。……俺は俺の音を作る」
休憩中にスマホを開く。
蒼太から〈0−0〉の報告、早苗から〈頑張って!〉の文字。
黒瀬は小さく笑った。
「三人とも走ってるな。……俺も負けない」
再び椅子に腰を下ろし、音に没頭した。
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6 後半の一瞬
全国初戦、後半二十五分。
相手のシュートがポストに当たり、こぼれ球が転がってきた。
反射的に前へ走る。
味方に繋ぎ、受け直す。
ゴールまでの道が一瞬開いた。
呼吸を半拍伸ばす。
あの川沿いで覚えた角度。
インサイドでボールを撫でるように蹴る。
カーブが描かれ、キーパーの手をすり抜けてネットに吸い込まれた。
歓声が爆発した。
仲間が抱きつき、監督が吠える。
「よし! 相馬!」
胸の奥で、別の歓声が重なる。
――「おめでとう。夢に一歩近づけた」
早苗の文字が蘇った。
⸻
7 夜の報告
試合後、宿舎に戻る。
スマホを開くと通知が光っていた。
『初めてのレッスン終わったよ。先生すごく厳しかったけど、楽しかった!』
『勝った! 全国初戦突破!』
二人同時に送ったように、ほぼ同じ時間に届いていた。
俺は笑って、両方に返す。
〈おめでとう。俺もおめでとう〉
黒瀬からも通知が来た。
〈今日の練習、自己ベスト。三人とも進んでるな〉
画面の文字が重なり、胸が熱くなる。
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8 川沿いの再会
数日後、三人で川沿いに集まった。
風は秋に変わりかけ、空気が澄んでいた。
「全国、一勝おめでとう」
早苗が笑う。
「ありがとう。……合格もおめでとう」
「黒瀬も、音大の準備おめでとう」
三人は笑い合った。
欄干に並んで手を置き、川面を眺める。
「これからも、何度でも約束を更新しよう」
早苗が言った。
「結び目は、ほどけてもまた結べるから」
俺は頷いた。
黒瀬も頷いた。
三人の影が、秋の川に並んで揺れていた。
三つの試練
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1 全国二回戦
二回戦の相手は、全国でも優勝候補と呼ばれる強豪だった。
キックオフと同時に圧力は前線から押し寄せ、パスコースが瞬時に潰される。
「相馬、下がれ!」
キャプテンの声に応え、中盤まで戻る。
相手の足音は鋭い。
ボールを奪ってもすぐに囲まれる。
まるで息をつく暇を与えない嵐のようだった。
汗が目に入り、息が荒れる。
――これが全国か。
でも、逃げるつもりはなかった。
「俺は臆病でも逃げない」
そう心の中で繰り返す。
後半、カウンターのチャンス。
俺は全力で駆け上がり、クロスに飛び込んだ。
けれど相手DFの体に弾かれ、芝に倒れ込む。
痛みが脛を走る。
「大丈夫か!」
仲間の声。
立ち上がる。
負けられない。
全国の舞台で、俺の速度を証明するんだ。
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2 早苗の初レコーディング
同じ頃。
早苗は事務所のスタジオに立っていた。
ガラス越しにディレクターとスタッフが並び、マイクの前に立つ自分を見ている。
「じゃあ、テイク1いきます」
イヤホンからカウントが流れ、伴奏が始まる。
声を出す。
――けれど、喉が固い。
高音が伸びず、途中で息が切れる。
「ストップ」
ディレクターの声が冷たく響いた。
「君、もっと練習してると思ったんだけどな」
胸が締めつけられる。
足が震える。
――これが、プロの壁。
もう一度、深く息を吸った。
「お願いします。もう一回やらせてください」
震える声でそう告げると、スタッフが視線を交わし、再び伴奏が流れ出した。
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3 黒瀬の出会い
黒瀬は大学の音楽練習室にいた。
今日は特別に開放され、他の受験生や在校生も集まっていた。
「君、相馬と一緒にやってる黒瀬だよね?」
声をかけてきたのは、同じくピアノを弾く男子学生だった。
「動画、見たことある。伴奏うまいな」
黒瀬は一瞬驚き、すぐに微笑んだ。
「ありがとう。でも俺はまだまだだよ」
「一緒にセッションしない?」
そう言われて譜面を広げ、即興で音を重ねる。
初めての出会い、初めての響き。
胸の奥が熱くなる。
――ここにも、戦う仲間がいる。
俺は音楽で勝負するんだ。
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4 試合の終盤
後半残り十分。
スコアは0−0。
相手の攻撃を何度も防ぎ、必死に耐える時間。
「相馬、もう一歩だ!」
キャプテンの声に押され、足を振り絞る。
ボールが転がり出る。
チャンスは一度きり。
俺は全力で走り、左足でクロスを上げた。
味方が飛び込み、ヘディング。
ネットが揺れる。
歓声が爆発した。
胸が焼けるように熱い。
――俺はここにいる。逃げてない。
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5 スタジオの涙
早苗は四度目のテイクを終え、肩で息をしていた。
ディレクターが言った。
「まだ荒削りだ。でも……声に芯がある。磨けば光る」
胸が震えた。
涙があふれそうになりながら、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
プロの世界の厳しさを痛感した。
でも同時に、挑戦の喜びも掴んだ。
――歌で生きていく。
その思いが、結び目のように固くなった。
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6 黒瀬の誓い
セッションを終えた黒瀬は、ピアノの前で静かに言った。
「俺はこの舞台に立ちたい。音大に入り、仲間と競い合って強くなる」
ポケットからスマホを取り出す。
早苗から「レコーディング終わった」というメッセージ、蒼太から「勝った!」という通知が並んでいた。
黒瀬は小さく笑った。
――二人に追いつくために、俺も走る。
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7 三人の夜
夜、川沿いで三人が集まった。
それぞれ汗と涙をまとっていた。
「全国、二回戦突破!」
俺が言うと、早苗は拍手した。
「すごい! ……わたしも、レコーディングで怒られたけど、少し褒めてもらえた」
黒瀬も微笑んだ。
「俺は新しい仲間を見つけた」
三人の言葉が、川面に映って重なる。
早苗が小指を差し出した。
「じゃあ、更新しよ。三人とも、それぞれの場所で逃げないって」
俺と黒瀬も小指を絡めた。
結び目は三人分になり、ほどけにくくなった。
夜風が静かに吹き、川の流れが未来を映していた。
交差するステージ
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1 全国ベスト8を懸けて
三回戦、相手は東海の強豪。
スタジアムは観客で埋まり、応援の声が波のように押し寄せていた。
「絶対にベスト8だ!」
キャプテンが叫ぶ。
俺たちは円陣を組み、地面を蹴った。
キックオフ直後から、相手の猛攻。
スピードもテクニックも、今までの相手とは桁が違う。
でも、足は止まらなかった。
――早苗も、黒瀬も、自分の舞台で戦っている。
だったら俺も逃げない。
ボールを受けた瞬間、心臓が跳ねた。
観客席のざわめきが遠ざかり、芝生の匂いとボールの感触だけが鮮明になる。
「行け、相馬!」
声に押され、俺は前へ突き進んだ。
⸻
2 前座ステージ
同じ頃、早苗は大手アーティストのコンサート会場にいた。
前座枠に選ばれ、数千人の観客を前に立つ。
ライトが眩しく、足が震えた。
(怖い……でも、歌いたい)
マイクを握りしめ、深く息を吸う。
昨日のレッスンで言われた「軸を意識して」を思い出す。
喉じゃなく、全身で声を出す。
「――聴いてください」
一声目がホールに響いた瞬間、空気が変わった。
歓声ではなく、静寂。
数千人の耳が一斉にこちらを向いた。
胸が震えた。
(届いてる。わたしの声……!)
サビに入ると、手拍子が広がった。
その光景に、涙が出そうになる。
「歌いたい。この場所で生きたい」
夢が確かに形を持った瞬間だった。
⸻
3 黒瀬の模試
一方その頃。
黒瀬は音大の模試を受けていた。
課題はショパン。
会場の空気は張り詰め、鍵盤に触れる指先が汗ばむ。
(俺は伴奏者としてだけじゃない。ピアノで勝負する)
一音目を響かせる。
ホールの残響が返ってくる。
その響きの中に、蒼太や早苗と積み上げてきた時間が流れ込んだ。
(逃げない。ここで全部出す)
ミスタッチもあった。
でも恐れず弾き切った。
最後の和音を押し出すと、静かな拍手が広がった。
胸の奥で、何かが確かに結び直された。
⸻
4 試合の後半
後半20分。
スコアは0−0。
相手に押され続け、足は限界に近い。
それでも走った。
サイドからのクロス。
俺はゴール前に飛び込む。
相手DFとぶつかり、転びながらも頭で合わせた。
ボールはネットに突き刺さった。
「ゴーーール!」
歓声が爆発する。
仲間に抱きつかれ、視界が揺れる。
(俺はここにいる。早苗、黒瀬――お前らと同じように)
ホイッスルが鳴った。
勝利。ベスト8進出。
⸻
5 ステージの終わり
早苗は歌い切り、深く頭を下げた。
大きな拍手と歓声が押し寄せ、ステージが揺れるようだった。
マイクを握る手が汗で濡れている。
「……ありがとう」
小さく呟いた声は、観客席の奥へと消えた。
袖に戻るとスタッフが笑顔で言った。
「すごい声だ。きっと化ける」
胸が熱くなった。
夢が夢じゃなくなり始めている。
⸻
6 夜の川沿い
三人はまた川沿いに集まった。
秋の風が少し冷たく、街灯が水面に揺れている。
「ベスト8、おめでとう!」
早苗が拍手した。
「ありがとう。……お前のステージも見たかった」
「動画で見せるよ。すごく楽しかった」
黒瀬も口を開いた。
「模試、何とか弾き切った。結果はまだだけど、逃げなかった」
三人は笑い合った。
欄干に並んで手を置き、未来を眺める。
「次の約束、更新しよ」
早苗が小指を差し出す。
「全国ベスト4。プロの契約。音大合格。――全部つかもう」
俺と黒瀬も小指を出した。
三人の指が結ばれる。
結び目はまた一つ、新しい形になった。
三つ巴の試練
⸻
1 ベスト4を懸けて
全国大会・準々決勝。
スタジアムの空気は、これまで以上に張り詰めていた。
観客の声が重なり、鼓動が速くなる。
「ここで勝てばベスト4だ!」
キャプテンが叫ぶ。
相手は関西の王者。技術も経験も一枚上。
前半、相手に押されてシュートを何度も浴びた。
俺も何度も走ったが、流れは掴めない。
――逃げない。
胸の奥でその言葉を繰り返す。
全国で証明する。俺の場所を。
⸻
2 初めてのインタビュー
同じ時間。
早苗は事務所の一室で、雑誌の取材を受けていた。
初めてのインタビュー。
録音機がテーブルに置かれ、記者がにこやかに質問を投げかける。
「どうして歌手を目指したんですか?」
「……小さい頃から歌うのが好きで。あと――」
言葉が喉で止まる。
本当の理由を言うか、迷った。
――蒼太に聴いてもらいたいから。
でも、それを口に出すのはまだ怖い。
「自分の声で、誰かの気持ちを少しでも動かせたら嬉しいからです」
そう答えると、記者は満足そうに頷いた。
でも胸の奥には小さな棘が残った。
「本当の気持ちを言えなかった」
⸻
3 黒瀬の結果
大学から模試の結果が届いた。
黒瀬は静かな練習室で封筒を開いた。
〈判定:B〉
悪くはない。
でも、合格ラインには届かない。
「……まだ足りない」
深く息を吐いた。
その時、ドアが開き、一人の年配の教授が入ってきた。
「君が黒瀬くんか」
「はい」
「君の演奏を見た学生が私に紹介してくれてね。模試は厳しい結果だが、光るものはある。指導を受ける気はあるか?」
胸が熱くなった。
「お願いします!」
黒瀬は新しい師匠と出会った。
それは挫折と同時に、新たな出発だった。
⸻
4 試合の後半
0−0のまま後半へ。
相手はさらに攻撃を強めてきた。
味方が必死に守り、ボールを繋ぐ。
俺は何度も走り、足が鉛のように重くなっていた。
それでも止まれなかった。
「相馬、前だ!」
パスが出る。
走り込んでボールを受ける。
相手DFが迫る。
息を半拍長く吸い、ボールを左へ流す。
インサイドで軽く押し出し、ゴール前に抜け出した。
シュート。
ボールはバーに当たり、大きく跳ね返った。
「くそっ……!」
悔しさで胸が焦げる。
でも、まだ時間はある。
逃げない限り。
⸻
5 インタビューの終わり
早苗は取材を終え、窓の外を見つめた。
都会のビルの間に青い空が広がっている。
「……蒼太のこと、言えなかった」
声に出してみると、胸が少し軽くなった。
本当の理由を言う日が、いつか来る。
それまでは歌で伝えればいい。
スマホを開く。
〈試合、0−0。頑張ってる〉
蒼太からのメッセージ。
早苗は笑った。
〈わたしも頑張る。全部終わったら、本当の気持ち、ちゃんと伝える〉
指先が震えていた。
⸻
6 黒瀬の覚悟
師匠に連れられ、黒瀬は別室のグランドピアノの前に座った。
「弾いてみなさい」
促され、鍵盤に触れる。
ショパン。
指先に汗が滲む。
でも、心の中で蒼太と早苗の姿を思い浮かべた。
「俺も、二人と同じ場所に行く」
音は荒削りだったが、魂は乗っていた。
師匠が頷く。
「まだ伸びるな。鍛えれば、本当に大きな舞台に立てる」
黒瀬は拳を握った。
「お願いします。絶対に合格します」
⸻
7 試合のラスト
後半残り二分。
スコアは動かない。
相手が攻め込み、ゴール前が混戦になる。
ボールがこぼれた。
俺は反射的に走った。
足が重い。でも、もう一度結び直す。
スライディングでボールを奪い、前線へ蹴り出す。
味方が受け、逆サイドへ展開。
クロスが上がる。
「相馬、行け!」
キャプテンの声。
最後の力を振り絞り、ゴール前に飛び込む。
頭で合わせた。
ボールはネットに突き刺さった。
スタジアムが揺れた。
歓声が爆発した。
ホイッスル。
勝利。ベスト4進出。
⸻
8 三人の夜
試合を終え、早苗の取材を終え、黒瀬の練習を終えた夜。
三人はまた川沿いに集まった。
「ベスト4、おめでとう!」
「ありがとう。……早苗も、取材お疲れ」
「うん。ちょっと言えなかったことあるけど、次は言える」
黒瀬が笑う。
「俺は新しい師匠についた。厳しいけど、やりがいがある」
三人の影が、秋の川面に揺れる。
「次はベスト4の壁だな」
俺が言うと、早苗は小指を差し出した。
「わたしも次のステージで、本当の気持ちを歌にする」
黒瀬も指を出す。
「俺は音大に受かる」
三人の指がまた結ばれた。
結び目は、これまでよりもさらに固く、強く。
川の風が、未来へと流れていった。
三つの舞台で
⸻
1 準決勝の朝
全国大会・準決勝。
ホテルの窓から差し込む朝日が、まだ眠る街を白く照らしていた。
ユニフォームを着こむ手が少し震える。
「勝てば決勝だ」
監督の声が響き、チームの空気が張り詰めていく。
緊張と期待、そして不安。
俺は胸の奥で小さく呟いた。
――臆病でもいい。逃げない。
バッグにスパイクを入れる音が、決意の鼓動と重なった。
⸻
2 テレビ出演
同じ朝、早苗はテレビ局の控室にいた。
全国ネットの朝番組。新人枠で短い歌とインタビュー。
これが放送されれば、一気に名前が知られる。
鏡の前で発声する。
「い・え・あ・お・う……」
喉は震えていない。
でも胸の奥は不安でいっぱいだった。
マネージャーが声をかける。
「リラックスして。あなたの声は強い」
スマホには蒼太からのメッセージ。
〈準決勝、行ってくる。絶対勝つ〉
その文字を見て、胸に熱が広がった。
「……わたしも、絶対歌う」
⸻
3 黒瀬の特訓
音大の師匠は容赦なかった。
「もっと深く! 指先じゃなく、全身で弾け!」
黒瀬は額から汗を流しながら鍵盤に向かう。
音が崩れる。
師匠がピアノの蓋を叩く。
「それじゃ舞台では戦えん!」
歯を食いしばり、再び指を落とす。
荒くても、魂を込める。
「俺は……二人に追いつく。必ず」
音はまだ未完成。
でも確かに、前より強く響いた。
⸻
4 前半の苦境
準決勝の相手は全国王者候補。
開始早々から押され、前半20分で失点。
スコアは0−1。
観客の歓声が突き刺さる。
汗が目に入り、視界が滲む。
キャプテンが叫ぶ。
「相馬、下を向くな! まだ時間ある!」
逃げたい気持ちを噛み潰し、前へ走る。
「臆病でも逃げない!」
心の中で叫びながら、ボールを追った。
⸻
5 生放送の声
テレビのスタジオ。
照明が一斉に降り注ぎ、司会者の声が響く。
「それでは、新人シンガー・早坂早苗さん!」
拍手の中、早苗はマイクを握った。
呼吸を二拍伸ばす。
角度を作り、最初の声を放つ。
会場が一瞬静まる。
カメラの赤いランプが光り、全国へと声が届いていく。
「……わたしは逃げない」
心でそう呟き、最後まで歌い切った。
司会者が笑顔で言う。
「素晴らしい声ですね。夢は?」
少し迷ってから答えた。
「一番大切な人に届く歌を歌うことです」
その言葉に、自分の頬が熱くなるのを感じた。
⸻
6 特訓の果て
黒瀬は指先が痺れるほど弾き続けた。
師匠がうなずく。
「いい。ようやく心で弾けるようになったな」
黒瀬は額の汗を拭った。
「俺は……負けない。蒼太にも、早苗にも。
でも、一番は自分に」
師匠が微笑んだ。
「それでいい。その覚悟があれば、音楽は裏切らん」
⸻
7 試合の後半
後半15分。
スコアは0−1のまま。
監督が叫ぶ。
「相馬、勝負に行け!」
仲間がボールを繋ぎ、俺にパスが回る。
相手DFが立ちはだかる。
深く息を吸う。
川沿いの夕暮れ、早苗の声が頭に蘇る。
――届いて。
切り返し、インサイドでゴール右隅を狙う。
ボールがカーブを描き、ネットが揺れた。
「ゴール!」
歓声が爆発する。
スコアは1−1。
俺は拳を握った。
「まだ終わってない!」
⸻
8 夜の再会
準決勝は延長戦へ突入し、死闘の末にPK戦で勝利。
全国決勝進出。
その夜、川沿いに三人が集まった。
「決勝進出、おめでとう!」
早苗が目を輝かせた。
「ありがとう。……早苗も、テレビ見たぞ。すごかった」
「恥ずかしかったけど……全部歌えた」
黒瀬も笑った。
「師匠に鍛えられて死にかけた。でも、まだやれる」
三人は顔を見合わせ、小指を差し出した。
「次は決勝。プロの契約。音大の合格。――全部掴む」
結び目は、もう解けないほど固くなっていた。
川の風が未来を照らしていた。
三つの頂点
⸻
1 決勝の朝
全国大会・決勝。
まだ日の昇りきらないスタジアムの外に、観客の列が長く続いていた。
ユニフォームを着込み、スパイクを結ぶ。
胸の奥で、何度も繰り返す言葉があった。
――臆病でも、逃げない。
仲間たちが肩を叩き合う。
「ここまで来たんだ、最後もやろうぜ!」
監督が短く言った。
「勝て。以上だ」
円陣を組んだその瞬間、スタジアムの熱が一気に押し寄せた。
耳が鳴るほどの歓声。
それでも視界は澄んでいた。
⸻
2 正式デビュー
同じ朝。
早苗は事務所の会議室に呼ばれていた。
プロデューサーが書類を差し出す。
「前座、テレビ、オーディション……全部見て決めた。正式にデビューだ」
言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
「……本当に?」
「本当だ。来月からCD制作に入る」
涙がにじみそうになった。
でも、笑顔で頭を下げる。
「ありがとうございます。……絶対に期待に応えます」
スマホを開き、蒼太へのメッセージを打つ。
〈デビュー決まった! わたしも、決勝と同じ日に夢が始まったよ〉
指先が震えていた。
⸻
3 黒瀬の一次試験
音大の一次試験当日。
会場は静かで、緊張に満ちていた。
黒瀬は深呼吸をしてピアノに向かう。
ショパンのバラード。
指先に力が入りすぎそうになるのを抑え、音を流す。
「深く息を吸え。音は呼吸だ」
師匠の言葉を思い出す。
一音ごとに心を乗せる。
荒さはあっても、真っ直ぐに響いた。
最後の和音を叩き切ると、会場に静かな残響が広がった。
――逃げなかった。
胸の中で拳を握った。
⸻
4 決勝前半
キックオフ。
相手は全国優勝候補筆頭。
前半から猛攻を仕掛けてきた。
何度もゴールを脅かされ、必死に守る。
汗が目に入り、足が重くなる。
それでも走った。
前半35分。
カウンターのチャンス。
ボールが回り、俺に渡る。
ゴールまで20メートル。
――逃げない。
インサイドで蹴ったボールは、美しい弧を描いた。
しかしポストを叩き、弾き返された。
歓声とため息が混じる。
「まだだ!」
俺は叫び、走り続けた。
⸻
5 プロの入口
デビュー決定のニュースは、ネット記事として一斉に配信された。
〈高校生シンガー・早坂早苗、鮮烈デビュー〉
スマホが震え続ける。
友達、家族、知らない人からも祝福のメッセージ。
でも、いちばん欲しいのは蒼太からの言葉。
画面を開く。
まだ「既読」はついていない。
(決勝中なんだ……頑張ってるんだ)
早苗はスマホを胸に当て、静かに微笑んだ。
⸻
6 試験の結果待ち
黒瀬は一次試験を終え、校舎の外に出た。
秋の風が涼しい。
仲間の受験生がそれぞれ結果を話し合っている。
黒瀬はスマホを開く。
蒼太の決勝の速報、早苗のデビュー記事。
「……二人とも、走ってるな」
拳を握った。
「俺も絶対に合格する。三人で未来に並ぶために」
⸻
7 決勝の後半
後半20分。
スコアは0−0。
延長戦も視野に入る緊迫した時間。
ボールがこぼれ、俺に転がる。
相手DFが迫る。
深く息を吸い、体をひねる。
「ここだ……!」
シュート。
ボールはゴール左隅に突き刺さった。
スタジアムが揺れる。
仲間に抱きしめられ、涙が出そうになる。
ホイッスルが鳴った。
全国優勝。
⸻
8 三人の夜
決勝後の夜。
川沿いに三人が集まった。
「全国優勝、おめでとう!」
早苗が泣き笑いで言った。
「ありがとう。……早苗もデビューおめでとう」
「うん! 夢が始まったよ」
黒瀬も微笑んだ。
「俺も一次試験、全力でやり切った。結果はまだだけど、逃げなかった」
三人の影が川面に並ぶ。
「更新しよう」
早苗が小指を差し出す。
「次は、蒼太はプロの舞台。わたしは本格的な歌手活動。黒瀬は音大合格」
三人の小指が重なる。
結び目は、未来そのものだった。
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