マシュマロ＝クロニクル

第十一話 帰ろう！

　桜の木の下で雨宿りしながら、私はそっと空を見上げた。

　薄い雲がゆっくり流れていて、小さな雨がまだぽつぽつと残っている。

　頬についた雨粒をハンカチでそっと拭いながら視線を落とすと、

　足元では茉白ちゃんがしゃがみ込んでマシュマロと遊んでいた。

　ハンカチをひらひらさせるたび、マシュマロが前足でちょいちょい触ってくるのを、

　嬉しそうに受け止めている。

　その明るい動きに、胸の奥がふっと温かくなる。

　……でも、濡れたままなのはやっぱり心配で。

「……茉白ちゃん、マシュマロと遊んでないで、

　ちゃんと拭かないと。本当に風邪ひいちゃうよ」

呼びかけると、茉白ちゃんはマシュマロに向けていた手を止めず、

横顔だけで、そっと返事をした。

「ありがとう、凛ちゃん。

　でも大丈夫だよ〜。妹にタオル頼んだから、すぐ来るよ」

「え……いつのまに？」

「マシュマロ見つけてすぐ〜」

マシュマロと遊びながら答えるその調子に、

肩の力がふっと抜けていく。

「……そういうところだけしっかりしてるんだから」

「えへへ〜。でもね、タオル頼んだのに……

マシュマロ、ぜんぜん濡れてなかった〜」

「……ね。だから言ったでしょ。

マシュマロ、ちゃんと自分で雨宿りできるって」

「ほんとだね。凛ちゃんの言うとおりだった」

独り言みたいなその一言に、

私は小さく息をついた。

　“ほんと気楽なんだから……”

　と胸の奥でそっと思いながら、

気づけば口もとがふわっとゆるんでしまう。

　――でも、そういうところが、茉白ちゃんらしいんだけどね。

小さく息をついた、そのとき――

「……おねーちゃん……どこなの〜？」

境内の入口あたりで、妹さんの声が小さく響いた。

片手に傘をまとめて持っていて、

持ちにくそうに手元を直しながら、きょろきょろと周囲を探している。

「あ！」

　茉白ちゃんの姿を見つけた妹さんは、

　ぱっと顔を明るくして、傘をぎゅっと持ち直し、

　トトトッと小走りでこちらへ向かってくる。

　けれど、姉の隣に私がいることに気づいた途端、

　ふっと歩幅を落として、

　その勢いをそっと抑えるように近づいてきた。

そして、ほんの少し緊張を含んだ声で――

「……こんにちは」

控えめだけれど、きちんとした挨拶だった。

「こんにちは」

私も軽く会釈を返す。

その横で、しゃがんでいた茉白ちゃんが顔を上げ、立ち上がる。

「瑚白〜、ありがと〜」

嬉しそうに声をかける茉白ちゃんに、

妹さんは小さく頷きながら、

そっとタオルと傘を差し出した。

隣にいる私の存在を気にしてか、

声がほんの少しだけ控えめになる。

「はい、これ……タオルと、傘」

「ありがと〜。

あ、凛ちゃん、これ」

茉白ちゃんは受け取ったうちの一枚を

そのまま私へ渡してくれる。

自分のほうのタオルは肩にかけて、

濡れた髪をぽんぽんと拭きはじめた。

「そうだ、瑚白。紹介するね」

茉白ちゃんが私に向かって手のひらを差し出す。

「こちら、お友達の凛ちゃん！とっても優しいんだよ」

その言い方がなんだか嬉しそうで、

私は少しこそばゆい気持ちになりながら、軽く会釈した。

「はじめまして。青山（あおやま）凛（りん）と言います」

「は、はじめまして……妹の瑚白（こはく）です。よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

茉白ちゃんはどこか満足そうに瑚白さんへ向き直った。

「それで……この子がね、前に話してた白猫の……マシュマロ！」

その言葉に、瑚白さんの目がぱちんと大きくなる。

「前って……お姉ちゃんが“ハンカチ取られた”って言ってた、あの白猫……？

ほんとに……いたんだ……」

ぽつりと驚きがこぼれる。

「えへへ……正確には“あげた”んだけどね〜」

「……あげたって……お姉ちゃん……」

瑚白さんは小さく肩を落として、

少しだけ呆れたように眉を寄せる。

でもすぐに、諦め半分・優しさ半分みたいな息をついて――

「……うん、お姉ちゃんらしいかも……」

と小さくつぶやいた。

「瑚白、マシュマロってね。ただの猫じゃないんだよ。

この子ね、あげたハンカチちゃんと持ってて……返してくれたの！」

「……えっ？　返してくれる……の？」

瑚白さんは目を丸くして、ほんの少しだけ首をかしげた。

状況が飲み込めない――そんな「？？？」が頭にそのまま浮かんでいる。

「うん、そうなの。ちゃんと持っててくれてね。

わたしのところまで届けてくれたんだよ〜」

「……そ、そっか。うん……よかった、よ」

とりあえず返事をする、そんな感じでぎこちなく頷く瑚白さん。

「あ、その顔〜！ 信じてないやつ〜？」

茉白ちゃんが頬をふくらませて言うと、

「信じてるよ……半分くらい」

「また半分〜？」

今度は二人で顔を見合わせて、ふふっと笑いあう。

その光景がなんだか微笑ましくて、

私は思わず、そっと口元がゆるんだ。

ひとしきり笑い合ったあと、

茉白ちゃんは、ほっとしたように息をつき、

マシュマロに話しかけるよう手を伸ばした。

「マシュマロって、ほんと偉いんだよね〜」

頭をなでようとした、その瞬間。

「……にゃっ」

マシュマロはひょい、と軽やかに身をかわし、

するりと瑚白さんの足元へ移動した。

「えっ……逃げられた……」

ぽかんと固まる茉白ちゃん。

突然すぐそばに来たマシュマロを見て、

瑚白さんは小さく肩を跳ねさせた。

でも、逃げるでも触るでもなく、

どうしたらいいかわからないように足元をそっと見つめている。

その控えめな驚き方がなんだか可愛くて、

私は思わず口元がゆるんだ。

「お、おねーちゃん……どうしよう……」

瑚白さんは目を丸くして、どうしていいか分からない様子で立ちすくんでいる。

「だ、大丈夫だよ。噛まないから……たぶん……」

「……たぶんって何よ、おねーちゃん！」

思わずツッコミが入る。

それでも茉白ちゃんは、悪びれる様子もなくにこっと笑った。

「平気だよ〜。ほら、そっと触ってみて」

促されて、瑚白さんはおそるおそる手を伸ばした。

「……よ、よろしくね……？」

そっと指先で撫でると――

「……にゃっ」

マシュマロは小さく鳴いて、

まるで“そこそこ気に入ったよ”と言うみたいに目を細めた。

「っ……！　い、今……喜んでる、よね……？」

瑚白さんの声が一気に弾んだ。

「うん、喜んでるね。瑚白、すごいよ」

茉白ちゃんが嬉しそうに言うと、

瑚白さんの頬がほんのり赤く染まった。

そんな二人の姿を見ていると、

胸の奥がまたふわっと温かくなる。

でも、そのあと――

「……よし。決めた」

茉白ちゃんが、マシュマロを見つめたまま

きゅっと表情を引き締めた。

「マシュマロ、連れて帰る！」

　一瞬、空気が止まった。

　私も瑚白さんも、何を言われたのか理解できずに固まる。

　その沈黙のなかで――

　茉白ちゃんだけが、なぜかちょっと得意げな顔でこちらを見ていた。

　……そして、意味が頭に入ってきた瞬間。

「「えーーーー!?」」

　私と瑚白さんの声が、

　境内にぴったり重なって響いた。

瑚白さんは、少しだけ眉を寄せながら言った。

「……お姉ちゃん、それは……。ほんとに面倒見れるの？」

茉白ちゃんは、迷いのない顔でこくんとうなずいた。

「雨の中に置いておけないよ。お腹だって減っちゃうし……。大丈夫だよ！

それに、二人で世話したら絶対お母さんも許してくれるよ！」

「……え、二人……？　私も入ってるんだ……」

瑚白さんは目をぱちぱちさせて、

自分も当然のように戦力に数えられていたことに

ちょっと驚いたようだった。

私はタオルを握りしめたまま、そっと声を添える。

「茉白ちゃん……ほんとに、できるの？」

茉白ちゃんは、迷わず笑って言い切った。

「できるよ！」

瑚白さんはまだ少し戸惑ってはいたけれど、

姉の気持ちを真正面から否定することもできなくて、

そっと視線を落とした。

「……うーん。私も、お母さんに言ってみるけど……」

私もまた、茉白ちゃんの優しさを大事にしたい気持ちと、

やっぱり心配な気持ちのあいだで揺れていた。

「茉白ちゃんの気持ちは……分かるけど……」

そんな私たちの様子を見て、

茉白ちゃんは小さく手を叩き、ぱっと笑顔になる。

「そうと決まれば、帰ろう！」

勢いよく歩き出す茉白ちゃんの後ろで、

瑚白さんと私は一瞬だけ顔を見合わせる。

……大丈夫かな、ちゃんと飼えるのかな。

そんな小さな不安が胸に残る。

　気づけば、雨はほとんど止んでいた。

境内はゆっくり明るさを取り戻していて、

薄い雲の向こうからこぼれる光が、

石畳の水たまりに静かに広がっていた。

その淡いきらめきは、

さっきまでの雨の気配をそっと洗い流すようで、

夕方の境内に、やわらかな余韻を残していた。