第五話 桜の下で

 朝はいつもより少し早く目が覚めた。

 窓の外はうっすらと白み始めていて、空気はまだ冷たい。


 ベッドから出て、洗面所へ向かう。

 蛇口をひねると、水の冷たさが指先にしみて、頭の奥まで目が覚めるようだった。

 鏡の中の自分は、どこかいつもより大人びて見える。

 頬に水を当てて、深呼吸をひとつ。


 タオルで顔を拭いてから、静かな足音で部屋に戻る。

 制服をハンガーから外し、丁寧に袖を通した。

 胸のリボンを結びながら、胸の奥が少しだけ高鳴る。


 机の上には、一枚の原稿用紙が置かれていた。

 「新入生代表 青山凛」。

 今日の入学式で読む挨拶文だ。


 椅子に腰を下ろし、もう一度文面を読み返す。

 一行ずつ目で追いながら、声に出さずに唇を動かした。

 語順、間の取り方、語尾の響き――どこをとっても、昨日まで考え抜いた言葉たち。


「……うん、これで大丈夫」


 小さくつぶやいて、原稿を丁寧にパタンと閉じる。


 その瞬間、カーテンの隙間から、柔らかな朝の光が差し込んだ。

 春の空気はまだ少し冷たくて、部屋の中には静かなぬくもりが漂っている。


 カーテンを少し開けると、庭の梅の枝に小さな影が止まっていた。

 羽を震わせながら、春の風を受けている。

 思わず、口元が緩んだ。


「……そろそろ行かないと」


 鞄を手に取り、部屋を出る。


 階下に降りると、お味噌汁の香りがふわりと漂ってきた。

 食卓の上には、焼き魚と卵焼き、湯気の立つお味噌汁。

 祖母が急須を手にして、湯呑みにお茶を注いでいた。


「おはようございます」

「おはよう、凛。あら……制服姿、とても似合うわね」


 祖母が目を細めて微笑む。

「やっぱり、若い頃の私にそっくり」

 その言葉に、母がくすっと笑った。


「そうね、お母さんに似たのかも」

「ありがとう。でも……少し緊張します」


 母が器を並べながら言う。

「お父さん、もう出たわよ。今日はお父さんの学校も入学式だから」

「うん、そうだったね。……お母さんのほうは明日だよね?」

「午後から少し出勤して、準備だけしておこうと思ってるの。

 でも今日は、あなたの入学式がいちばん大事」


 母はそう言って、湯気の向こうでやわらかく笑った。

「今日は凛が主役なんだから、楽しんできなさい」

「うん。……ありがとう」


 お箸を手に取り、ごはんをひと口。

 炊きたての白いごはんの香りが、胸の奥までゆっくりと広がった。

 お味噌汁を口に含むと、少し塩気のある優しい味がした。

 おそらく、いつもより出汁が少し濃い。

 ――母なりに、今日のために味を整えてくれたのかもしれない。


 祖母が湯呑みを置きながら言う。

「いってらっしゃい。姿勢を正して歩きなさいね」

「はい。いってきます、おばあちゃん」

「帰ったら、紅茶をいれましょう。

入学式の話、ゆっくり聞かせてね」

「うん、わかった」


 祖母はふっと笑ってうなずく。

 その穏やかな笑みが、凛の背中をやさしく押した。

 玄関で靴を履くと、母が軽く笑って言った。

「じゃあ、行きましょうか」

「うん」


 扉を開けると、春の風が頬を撫でた。

 光の粒が、道の上に静かに散っている。


 外に出ると、春の空気が頬をくすぐった。

 門の前には、淡い桜の花びらがいくつも舞っている。

 朝の光を受けて、ひとつひとつがゆっくりと揺れながら落ちていった。


 母と並んで歩く。

 道路沿いの桜並木は満開で、風が吹くたびに花びらの雨が降った。

 歩道の上には、光と影が細かく交わっている。


「きれいね」

 母が小さくつぶやく。

「うん……少し眩しいけど」

 答えながら、空を見上げた。

 青の奥に、白い花びらがふわりと溶けていく。


 坂を上りきると、桜ノ宮坂上女子高等学校の校門が見えてきた。

 白い壁と桜の枝が、朝の光を受けて淡く輝いている。

 校門の横には「入学式」と書かれた立て看板。

 その前で、多くの親子が順番に写真を撮っていた。


「新入生の方、記念写真いかがですか?」

 声をかけてきたのは、腕章をつけた写真部の先輩だった。

 カメラを抱えて、優しく微笑んでいる。


「凛、撮ってもらいましょう」

 母がそう言って、自分のスマホも一緒に先輩へ手渡した。

「お願いします」


 母と並んで立ち、立て看板の前に姿勢を整える。

 「もう少し寄ってくださいね」と先輩の声。

 春の光の中で、シャッター音がやさしく響いた。


「はい、撮れました。とってもきれいに撮れてますよ」

「ありがとうございます」


 母がスマホを受け取りながら、目を細める。

 その表情は、どこか“先生”の顔だった。

 学校の雰囲気を確かめるように、周囲を静かに見渡す。


「部活動が盛んな、いい学校ね」

「はい」


 その周りでは、生徒会の先輩たちが新入生を案内し、

 文芸新聞部らしき先輩たちが取材メモを取っている。

 その様子を見ながら、胸の奥で小さく思う。

 ――しっかりした学校なんだな。

 こういう活動の一つひとつが、雰囲気を作っている。


「凛、式が終わったら私はそのまま学校に行くから、凛も気をつけて帰るのよ」

「うん。ありがとう」


 母が軽く手を振り、保護者受付の方へ向かっていく。

 その背中を見送りながら、わたしは深呼吸をひとつした。


 校門をくぐると、春の光がいっそうまぶしく感じた。

 靴音が石畳に静かに響く。

 教室へ続く道の先で、花びらがまたひとひら舞い落ちた。


* * *


 講堂に入ると、外よりも少しひんやりとしていた。

 高い天井から下がるカーテンが、春の光をやわらかく透かしている。

 窓の外から差し込む光が、床に淡い模様を描いていた。


 並んだ椅子に腰を下ろすと、周りから小さなざわめきが聞こえる。

 まだどこか落ち着かない声の響き。

 緊張と期待の混じった空気が、講堂全体を満たしていた。


 やがて、司会の声が響く。

「これより、入学式を始めます」


 音楽が流れ、全員が立ち上がる。

 桜の花を模したステージ装飾が光を受けてやさしく揺れた。


 校長先生の挨拶、来賓の祝辞。

 一つひとつの言葉が、春の空気の中で静かに溶けていく。

 そして、生徒会長が壇上に立った。


 落ち着いた声。

 響きは凛としていて、それでいて温かい。

 ――在校生を代表して、新入生の皆さんを心より歓迎します。

 その言葉が胸に残る。


 あんなふうに、人の前で堂々と話せるようになれたら。

 そう思いながら、姿勢を正した。


 新入生代表の呼名。

 自分の名前が呼ばれた瞬間、

 手の中に持つ原稿の端が、ほんの少しだけ震えた。


 でも――大丈夫。

 今まで何度も練習してきた。

 深く息を吸い込み、壇上へと歩き出す。


 ステージの上から見た光景は、思っていたよりも広かった。

 光の粒が舞っているように見えて、

 その中にいる全員の視線が、静かにこちらを向いている。


 マイクの前に立ち、深呼吸をひとつ。

 そして、言葉を置くようにゆっくりと口を開いた。


「この春、私たちは新しい出会いとたくさんの希望を胸に、

 桜ノ宮坂上女子高等学校に入学しました――」


 自分の声が講堂の奥まで届いていく。

 一文ごとに心を込めながら、

 言葉のひとつひとつを、確かに届けていく。


 読み終えた瞬間、

 静かな拍手が広がった。


 その音に包まれながら、

 胸の奥がじんわりと温かくなる。

 ――今日から、ここが新しい場所になる。

 その実感が、ゆっくりと心の中に灯っていった。


 「――以上で入学式を終了します。

 生徒の皆さんは係の指示に従って退場し、クラスごとに記念撮影を行ってください。

 保護者の皆さまはそのままお席でお待ちください。」


 放送の声が講堂の高い天井に響く。

 椅子の音、制服の擦れる音、花の匂い。

 静けさの中に、小さなざわめきが混じっていく。


 列になって歩き出す。

 外に出ると、春の光がまぶしくて、思わず目を細めた。


 桜が、風に合わせて枝先を揺らしている。

 花びらが舞って、肩や髪にやさしく触れた。


「新入生の皆さん、こちらでーす。クラスごとに撮影しますね」


 校門の前では、生徒会の腕章をつけた先輩たちが、

 新入生を丁寧に誘導していた。

 その少し先では、文芸新聞部らしい先輩たちが

 インタビュー用のノートを手に、柔らかい声で話しかけている。

 春の光の中に、笑顔と声がゆっくりと溶けていった。


 桜の木の下、少し前の列に並んでいる女の子が、空を見上げていた。

 その表情は、どこまでも純粋で、楽しそうで、優しさに満ちていた。

 髪にとまった花びらが光を受けて、そっと揺れている。


 ――春みたいな表情をする人だな。


 少し大袈裟かもしれないけど、本当にそう感じた。

 桜も、光も、彼女も。

 すべてが静かに溶け合って、ひとつの景色になっている。


 気づけば、しばらくその姿を見つめていた。

 ふと我に返ると、隣で先輩たちが声をかけ、列が動き出していた。


 軽く息を吸い、姿勢を正して前へ進んだ。

 カメラの前で並ぶ声と笑い声が重なり、

 春の光がその瞬間を包み込んでいった。


* * *


 「今日は配布物の説明と、簡単な自己紹介だけね。

 一人ずつ名前を呼ばれたら前に出て、自己紹介をお願いします。

 緊張しないで」


 先生の声がやわらかく教室に響く。

 名前、出身中学、ひとこと。“よろしくお願いします”。小さな拍手。


 教室の空気は、春の光のように穏やかだった。

 前の方では自己紹介を終えた生徒たちが、

 小さく笑い合ったり、席に戻って友達と目を合わせたりしている。


 静かに自分の番を待っていると、

 前の席の子の髪に、薄桃色の花びらが留まっているのが見えた。

 そのまま見過ごせなくて、思わず声がこぼれた。


「あの」


 彼女が振り返る。

 さっきの記念撮影で桜を見上げていた、あの子だった。

 近くで見ると、少し緊張したような、それでもやさしい瞳をしている。


「髪に、花びらが」


 伝えると、彼女は一瞬きょとんとして、

 すぐに自分の髪を指先で探るように触れた。


「ありがとう、どこだろう?」


 その声が思ったよりも近くて、胸の奥がわずかに動く。

 けれど、彼女はうまく見つけられずに指を止めた。


「少し、動かないで」


 そう言って、そっと身を乗り出す。

 指先が彼女の髪に触れると、

 光を含んだ細い髪が、春の風のようにやわらかく揺れた。


 小さな花びらをつまんで持ち上げる。


「これ、です」


 その言葉に合わせて、彼女が自然と手を差し出した。

 その手のひらに、静かに花びらをのせる。


「ありがとう」


 小さく響いたその声が、やさしく耳に残った。

 手のひらの上の花びらを見つめながら、彼女がぽつりとつぶやく。


「きれい。しおりに、しようかな」


 その言葉に、胸の奥がそっと温かくなった。

 たった一枚の花びらを見てきれい、そう思える――

 その心が、とても綺麗だと思った。

 自分にはなかった感性に、少し驚いて、

 けれど、静かに惹かれていくのを感じた。


「はい。……いいと思います」


 自然にそう口にしていた。

 彼女がふっと目を細め、やわらかく笑う。

 その笑顔は春の光みたいに静かで、優しかった。


 その直後、名前を呼ぶ声が響いた。

 彼女が立ち上がり、前へ出て歩いていく。


「白井茉白です。南ケ丘中から来ました。えっと……よろしくお願いします」


 拍手が起こる。

 その音の中で、彼女は少しだけ笑った。

 静かに、それでいてやわらかな表情。

 ああ――やっぱり、春みたいな表情をする人だなと思った。


 そして、今度は自分の名前が呼ばれる。

 立ち上がり、前に出る。


「青山凛です。星ヶ丘中から来ました。どうぞ、よろしくお願いします」


 姿勢を正し、少しだけ深呼吸して一礼する。


 席に戻る途中、彼女がこちらを見て、やわらかく会釈をした。

 わたしも小さくうなずき、そっと微笑んだ。


 春の光の中で、彼女の髪にまた小さな花びらが触れた気がした。


〈後半へ続く〉

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