共依存の檻

Maki

プロローグ

夜の会議準備室は、表では誰もが知る「応接」だが、夜になると別の名札に掛け替えられる。鷹野仁は、いつも通り椅子の背を指先で叩き、部下たちの視線が一点に収束するのを待った。

「明日の投資家向け情報共有サービスのレビュー戻し。数字の揺れは、表では“想定誤差”で片付けろ。裏の意図は記録に残すな」

短く、正確に。彼の言葉は指示というより運用ルールの再確認に近い。表でトップ営業の顔を持ち、裏では人と情報を繋ぐパイプ役。切り替えは、呼吸と同じくらい自然だ。


ノックもなく、小走りの靴音。若い部下がノートPCを抱えて入ってきた。

「戻りが来ました。外資の方、暫定レビューとのことです」

画面が机の中央に回される。オンラインの共同編集。コメント欄が、信号のように横一列に灯っていた。

《投資家セグメント定義は業界標準と乖離。意図説明がない場合、別目的のロジック流用と推測/週次で会議体が走る前提のUI遷移。要件“週次固定”が、現行の社内承認フローと一致しない→裏側に非公開のガバナンスが存在?》

《アクセスログ設計:IP範囲の切り方が自社WANではなく複数母体を前提に見える。社外からの機関投資家参照という建付けにしては、内部イベントの粒度が細かすぎる》

《提案書のメトリクス:KPIの重み付けが“開示”ではなく“検知”。利用者価値の定義が通常のIR目的と矛盾→別ユースケースが同居している可能性》


無駄がない。断言はしないが、推論が道筋ごと見える。仁は眉を寄せ、コメントの右端——小さく灰色の表示に目を止めた。

佐倉 菜月。

誰でも読める欄に、誰でもたどれる署名で、ここまで掘り込んでいる。


「……この戻し、どこまで渡した」

「RFP本体、ベンダー提案、一部の前提資料、です。すみません、前提資料に、社内の……その、裏の会議用のドラフトが紛れていた可能性が」

部下は声を落とした。「マスキング済みでしたが、構造が残っていて。たぶん、読み解かれたのはそこです」


表の論理だけで、裏の会議の骨格に手がかかっている。しかも、共同編集のコメントに、だ。事故とはいえ見せたのはこちら。放置はできない。削除すれば痕跡が残るし、揉み消せば不自然が立つ。

「この佐倉ってのは誰だ」

「コンサル会社の候補者の一人だそうです。正式アサインは未定。いまは別のCRM刷新の案件に入っていて、もうすぐリリースらしい。個人の詳細は、人事経由でリサーチ中ですが、時間がかかると」

「SNSは?」

「本人名義は見つかりません。ただ、同姓同名で検索したら弟さんのアカウントが出てきて……オープンになってます。姉弟で写ってる写真がいくつか。顔の突合、年齢レンジ、問題なく一致します」


仁は画面に映ったコメントへ視線を戻す。語尾に迷いがない。仮説と断言の線引きが、異様に正確だ。

《“検知”に寄り過ぎ。投資家向けなら説明責務が前段に来るはず → 利用者像の二重化を想定》

読みが当たっているかどうかは問題ではない。当たりかけていること自体が危険なのだ。表の資料から、表のルールで歩いただけで、裏に届いてしまう人間。悪意ではなく、整合性の純度だけで辿り着くタイプが一番厄介だ。

「この戻し、社内で誰が目にする」

「担当部の課長と、ベンダー側のPM。それから——」

「そこで止めろ。以降の展開はこっちで握る」


部下が息を呑む。仁は指を一本立てた。

「まず、レビューに礼を出せ。表の窓口から。次に——監視をかける。今すぐだ」

「監視、ですか」

「事故で裏を見せた。しかも解いた。公にコメントを残した。ここから放って、偶然がもう一度起きたらどうする。あいつは裏と接点を作っていないが、接点がなくても届く。それが危険だ」


部下は頷き、遠慮がちに続けた。

「であれば、今回の【投資家向け情報共有サービス開発プロジェクト】でのアサインを打診するのが自然かと。レビューの評価も高いですし、建前も立ちます」

仁は首を横に振った。

「始まったばかりの“きれいな”案件では、能力の計測にならない。環境が整っていれば、答えは誰でも出せる。見るなら、火の粉が飛ぶ場所だ。炎上中のSFA刷新のPMO支援——そこに入れる」

「……あそこは、表でも相当荒れています」

「だから良い。運用、データ移行、営業現場の抵抗、役員の気まぐれ——雑音の中で、彼女がどこまで切り分け、どこまで“正しく”進めるかを見る。何を捨て、何を残すか。そこに本性が出る」

部下は逡巡した。

「名目は?」

「人手不足の補完、ガバナンスの強化、ベンダーコントロールの是正。どれでも使える。向こうのパートナーに“急ぎでハイレベルのPMOを”と打診すれば、理由は後から整う」


仁は短く息を吐き、PCの画面を指で弾いた。コメントの行がわずかに揺れ、灰色の名前が視界の端で瞬いた。

佐倉菜月。

彼女の言葉は、どれも「そこにある」ものを指しているだけだ。余計な比喩も色もつけない。なのに、読む者の脳内で補助線が勝手に増えていく。結論に近い場所に、自然に座らされる。

——この手の思考は、使える。道具として。

そう思った瞬間、別の言葉が背骨の中で冷たく響いた。

——見たい。どこまで行くのか。


「人事に入れる。社外コンサルの指名、条件は“即日、三か月”。CRMの方はリリース期で手が離れない? 交渉する。オファーを太くすれば動く。名目は経営直轄のプロジェクトリカバリーだ」

「了解しました」

「それから、彼女のバックグラウンドは並行で洗う。履歴、過去のアサイン、評価。時間がかかるなら段階報告。SNSは弟の線を中心に、写真の時系列で変化を見る。本人に発信がない人間ほど、映り込みに手がかりが出る」


部下が退出し、扉が静かに閉まる。準備室の時計は、表の終業時間からずれて、裏の夜へ滑り込んでいる。

仁は視線を天井へ上げ、深くは笑わない種類の笑みを口の内側にしまった。

表では、優秀な人材を炎上案件にあてるだけの話だ。裏では、偶然をもう一度、必然に変えて確かめるための配置換え。

彼女が“正しさ”だけで踏み越えてくるなら、こちらは“事情”だけで囲い込む。


机上の端末に指を伸ばし、役員直通のスレッドに一行だけ打つ。

《SFA刷新、PMO補強。外部より一名、至急。》

送信の音が、夜の部屋に小さく落ちた。

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