第27話「堕天使として」
__また明日。
日も落ち切った時間。
うす暗い自室の中で、堕ちた天使は鼓膜の奥底に残ったその言葉の響きをじんわりと味わうように思い出していた。
「ふん、湊音の癖にね」
エルは発した名前の人物を思い浮かべながら、なんとも心地の良い気分で悪態をついた。
今まで天使である事を己の誇りとして十四年を生きてきたエルにとっては、あまり馴染みのない感覚だった。
天使としての誇り。そう、天使として誇りである。
「エルちゃんや、明日のお夕飯は何がいい?」
物思いにふけったエルの思考を止めたのは、そんな祖母の何気ない一言だった。
明日に中間テストを控えているという孫娘に対しての控えめな激励なのだろう。祖母はなるだけ音を立てないように扉を開けて先ほどの言葉を言った。
「おばあちゃん、私はいつも通りで満足だよ。でも強いて言うなら、きゅうりのお漬物を添えてくれてると嬉しいな」
エルは祖母に対して、ぬくもりを感じさせる日向のような笑みを浮かべてそう言った。
「そうかい?わかったよ、ちゃんと用意しておくからね。明日、頑張ってね」
あと身体を冷やさないように、早く寝るんだよと、一言と二言を添えてエルの祖母は扉を閉めた。
それに対してエルは、大丈夫だよと笑いながら答えた。
「………ふぅ」
そうして、祖母の足音が遠ざかるのを確認してから小さく息をついた。
エルにとってこれは、決してため息などでは無い。ほんの少し、小さめの深呼吸である。
エルにとってため息とは、感情の揺らぎを示すものであり、または己の疲労感を認める行為に他ならないのである。
それをこの少女は良しとしない。
自身は将来的に人々を救済する使徒である、ならば自身は完全で完璧な存在でなければならない。
ならばこそ、ため息など言語道断なのだ。
「…とかなんとか思っていたのだけれどね」
天使の出来損ないである彼女は、ヘソを曲げるように苦笑した。
それと同時に、アリアに言われた言葉を思い出す。
__君は、堕天使の娘だ。
「堕天使…堕天使かぁ…」
エルは未だにその事実を飲み込めずにいた。
否、飲み込めてはいる。だが咀嚼することなく、とりあえず事実として飲み込んでいるだけの状態である。
彼女自身、その事実に納得はしていたし、どこか腑に落ちてもいた。
しかし、どうにも現実感がない。
「さて…」
そうしてエルはとある書物を机の上に広げた。
それは、断じて学校教材などではない。確かに彼女はテスト前日の中学生であるが、それ以前に天使の末裔なのだ。
広げた書物には、通常の物とは異なる文字列が書き込まれたいた。天使にのみ伝わる特異な言語なのだろう。
「____。」
エルはその書物に手のひらをかざし、書かれた文字を読み上げる。
すると、薄暗い部屋に淡い光が立ち上り始める。
手のひらから発生した光の粒子が、彼女の周囲を不規則に浮遊する。彼女を中心にプラネタリウムが広がるような光景であった。
だが、その光は決して輝かしくはなく、煌びやかでもない。くすみを帯び、若干の濁りすら見て取れる。
それは、彼女が純然たる天使では無い事の何よりの証明であった。
「…やめやめ」
手を振り払い淡く光ったそれらを雑に消してしまった。
彼女は何とも不満げな表情を浮かべる。
エルという存在は人間社会においては優等生であるが、天使としての基準で計るのであれば落伍者と言っても良いほどであった。
彼女がその事を自覚出来たのは、今は亡き父の残した、たった今机に広げている書物のお陰であった。
その書物には、天使としての使命や志し、また修練のための基礎知識など記されており、エルが天使として大成するために必要な情報が十全に書かれていたのだ。
エルはそれらを身に着けようと努力したが、結果は現在の通りである。
それも仕方のない事である。なにせ彼女は天使などではなく、堕ちた天使、堕天使であったのだから。
エルはその事実を受け、生きていく上での目標…生きがいを見失いつつあった。
かつて大天使であった父に憧れ、誰よりも正しく何よりも美しくあった父に憧れ、その偉大な背中に憧れた人生だった。
そしてそんな父を目指して十三年、まさか憧れた父は堕天使であり、その娘である自身も堕天使であったのだ。
湊音の前では平然と振る舞えているが、その実精神は崩れかけている。
「はぁ~…」
「ため息は不幸が寄るぞ~?」
「え」
全てを投げ出さんとするため息に対し、あっけらかんとした声が響いた。
エル以外いないはずの部屋の中に、確かに響いた。
「やぁエルちゃん、私だよ。過保護お姉さんこと、アリアさんだ」
困惑を隠しきれていないエルをガン無視して、ベッドの上でアリアは髪をかき上げながら妙な決めポーズでエルに視線を送った。
「…不法侵入よ、あと人のベッドに乗るな」
エルは精一杯の悪態を尽くしかなかった。
「ありゃ、ごめんね。でも窓が少し空いてたからさ」
そうして指さされた方を見ると、確かにほんの少しだけ窓が開いている。
エルが部屋内の空気を入れ替えるために開けていたのだ。たとえ少しの隙間であっても、身体をコウモリに分裂出来るアリアならば入る事は容易だろう。
「チッ…何の用?」
それを察したエルは質疑することも面倒になって、早急に話を切り出した。
「舌打ち酷いぞう!いやね、感謝の気持ちを伝えておこうと思ってさ」
「特段感謝されるような事してないわよ」
「湊音くんの事だよ。君と関わってからあの子がよく笑うようになってね、悔しいけど私には出来ないからさ」
それを聞いてエルは疑問を抱いた。
アリアといる時の湊音も十分に笑顔を浮かべていたし、楽しそうに見えたからだ。
しかし、その疑いを投げかける前にアリアが口を開いた。
「だから、ありがとう。私は君に感謝している。これからもどうか、あの子をお願いね」
アリアは真っすぐとエルを見据えて言った。
エルは目を見られているのにも関わらず、身体の奥底まで釘付けにされたような感覚を覚えた。
「…頼まれても困るわ、私と彼はただのクラスメイトだもの」
「え、まだ惚れてないの???」
「帰れ盲目過保護バカが」
「言い過ぎじゃない?」
ごめんごめん…とアリアは冗談めかすように言った。
「でも惚れてないにしても、それなりに気に入ってはいるんじゃない?」
と、アリアは言う。今度は冗談では無く、言葉に芯を持たせて。
それに対してエルは、アリアの意思に向き合うように喉を震わせた。
「全くの心外だわ、誰があんなの。彼みたいな臆病者」
そう、その言葉は嘘偽りの無い本心であった。
エルが見る湊音という人物は、酷く臆病であり歪である。人の目を第一に観察し、自身が嫌われないよう恐れている。
しかし、それも嫌われることによって他人の気分を害すことを恐れているように見えるのだ。
そしてなによりも気に入らないのが、常に外装をハリボテで覆い隠している事である。
自身の感情を押し殺し、他人の気分を害さない為ならば白を黒、黒を白と言えてしまうであろう彼が堪らなく嫌なのだ。
「でも本人はその臆病さを自覚し、苦しんでいる」
一か月以上の年月、湊音という少年を見てきたその吸血鬼は言った。
その言葉にエルは少しの沈黙を尽くし、しばらく考えた。否、考えるふりをしていた。
何故ならもう結論は大方出ていたからだ。
「…ええ、湊音はその自分自身の性を自覚している。そして抗おうとしている」
__また明日。
エルは湊音の言葉とその表情を鮮明に思い出す。
あの言葉に彼がどのような想いを込めたのか、エルにはわからない。
ただ、以前の彼からは決して出ない一言であったのは間違いない。
ともあれ、湊音という人間は前に進もうと足掻いているのだ。その事実が、エルの琴線に確かに触れていた。
「私はそんな彼を…まぁ、悪くないと思うわ」
エルは言った。うす暗い部屋の中で分からないくらいに笑みを浮かべて。
「なら、エルちゃんも抗わないとね」
「え…?」
唐突な物言いにエルの言葉は詰まった。
「まだ自分が堕天使だったことに気持ちの整理がついてないんでしょ」
「そんなことは」
「ならなんで天使の鍛錬なんかしてたのさ」
「…見てたのね、趣味が悪い」
湊音に不法侵入と覗き見を暴露してやろうかと思う程にはエルは苛立ちを覚えた。
「私から言わせてみれば、天使なんてろくなもんじゃないよ。むしろエルちゃんが堕天使で嬉しいくらいにね」
この時アリアは、先日に刃を交えた天使の顔を思い浮かべようとして、気分が悪くなることを察して止めた。
「天使は絶対善で、高潔な存在。私はそれに憧れて…」
「あーだめだめ。憧れて成れるもんじゃないんだな天使って。アイツらは生まれたその瞬間から思想が完成された存在なの。だからエルちゃんは天使には成れない、なりようが無い」
「…そう」
淡々と告げられる事実にエルは落胆にも似た感情を隠しきれずにいた。
改めて突きつけられた現実にやや負けそうになる。
それを確認したアリアは、変わらずあっけらかんとした声色で言った。
「だから、堕天使としての生き方を探せばいいと思うよ?」
「それって…どんな?」
普段のエルからは考えられない程に弱々しい声だった。
「それはエルちゃん、君が見つけるんだ。私の愛する湊音くんのように、事実を受け入れて抗って答えを見つけるんだ。元来、人間ってのはそういう生き物であると私は思うね」
「…あなた、湊音の前と随分様子が違うじゃない」
ほころんだ笑みを浮かべ、若干の嫌味を飛ばした。
「そりゃだって、なるだけ湊音くんの前では陽気なお姉さんでいたいじゃん?」
「あ、そう」
「それじゃ、湊音くんが夜更かししてないか確認しなきゃだから、私は帰るね~!」
「さっさと帰りな、過保護めが」
アリアが外に飛び出そうと窓枠に足をかけ、最後に言い残すようにアリアはエルに言葉を送った。
「大丈夫、君なら出来るよ」
そうしてアリアは、身体を無数のコウモリに変えてエルの元から去って行った。
それを見送ったエルは、部屋に残る余韻を肌で感じたのちに、静かにベッドに入った。
自分が何者であるかを考え、何をすべきかを考え、そのうち結論の出ないままに眠ってしまった。
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