第5話

「はいよ。ありがとうな」

 ジョーはエリーから受け取ったコインで二人分のコーラを買い、一本をエリーに手渡してやった。

「でも、こんな事でお礼をした気になれないわ」

「元々が大した事してないしさ。私にしてみれば、仕事終わりの飲み物代が浮いただけで十分だよ」

 たった飲み物一瓶で恩を返せたとは思えず、エリーは不満げな表情をのぞかせた。ジョーはそんな彼女を宥めるように「これでチャラだからな」と念を押した。

 エリーはあまり納得がいかないようで、むう、と少し頬を膨らませてから、コーラを一口飲んだ。

 瓶口から入ってくる炭酸の刺激に、けほ、けほ、とむせ返る。

「おい、どうしたんだよ?」

「瓶から直接飲み物を飲んだ事がないの。飲みにくいのね」

「あはは! マジかよ、君!」

 エリーの言葉を聞いて、ジョーは心底おかしそうに笑った。

 今度は本当にむっとした顔を作った彼女がジョーに詰め寄って、その胸を指先で小突く。

「誰にでも初めての事はあるでしょう。それを笑うのって、よくない事だと思うわ」

 ジョーはようやっとで笑いを堪えて「いや、悪い悪い」とエリーの肩をぽんぽんと叩いた。

「君みたいな人を初めて見たんだ。次からは気をつける。初めて同士でおあいこだろ」

 そう言いながらもにやけた顔を抑えられないジョーの頬を、エリーが軽くつねった。

「優しいって言ったの、取り消すわね」

 そう言って、笑った。

「ねえ、マグダルの事を教えてくれない? 私、マグダルに会うのは初めてなの」

「気が進まないな。君、イェイツの教徒だろ」

「そうだけど、何か?」

 それがどうしたの、と不思議そうに尋ねるエリーに、ジョーは困ったように眉根を寄せた。どう言ったものか、としばし思い悩んでから重い口を開いた。

「イェイツの人にはあんまりマグダルだって話はしちゃいけない事になってる。本当は君にも知ってほしくなかった」

「どうして?」

「どうしてって……。屑鉄街の管理をしてる偉い人達は大概がイェイツの教徒だろ。そういう人達に異教徒だってバレたら、覚えが悪いじゃないか」

「そんな事はないと思うけど。そもそも、それってなんの問題があるの?」

 ジョーはエリーの言葉を聞いて、少し呆れてしまった。

 お嬢様育ちで世間知らずなのかもしれないが、そんな事もわからないのか、と言葉には出さずとも驚きを隠せなかった。

「自分達の教義と違うものを信仰してる奴の事なんか信用しないだろ。私だけが信用されなくて仕事を回してもらえないのは、まあ、構わないよ。いや、困るけどね。でも、同じ地区の仲間にも迷惑がかかるかもしれないじゃないか」

 なるべくエリーの気に障らないような言い方を選んで、丁寧に説明したもりだったが、エリーはまだ納得がいかない様子だった。

 そんな彼女を見てジョーは、労働者の垂れた講釈なんて、金持ちのお嬢さんには響かないんだろうな、と思った。

 一方でエリーにしてみれば、正直、ジョーの話は、今まで自分の生きていた世界では全く聞いた事のない話で、全く違う世界の話のように思えた。信じる信じないの話以前に、わけがわからない、とさえ。

 少なくともわかったのは、そこで言い合ってもしょうがないだろうという事だけだった。

「よくわからないけど。まあ、いいわ。でも、私はマグダルに悪い感情なんかないから。安心してちょうだいね」

 そう言ったエリーは、自分の言葉を裏付けるように、それにね、と前置きして話を続けた。

「私のお父様はマグダルの事を尊敬しているのよ。昔に大変な恩義を受けたんですって。だから、私も一度マグダルの人と話してみたかったの」

 ジョーは、その話を聞いて素直に驚いた。

 金持ちのイェイツがマグダルを尊敬している、なんて話は初めて聞いたからだ。

 イェイツはこの国の圧倒的な主流宗教で、特に富裕層は大多数がその教徒だ。ジョーは、富裕層の人間はイェイツ同士で集まって、その教義に則った会合を開くのが一種のステータスのようなものだと聞いていた。そんな中で、異教の者を尊敬しているというのは、かなり肩身が狭いのではないかと思えたのだ。

「珍しい人だな。君の親父さんは」

 ジョーは単純に驚いてそう言ったのだが、エリーは、別に普通よ、と本当に大した事ではなさそうに話を流してしまった。

「それよりも貴女の話を聞かせてほしいわ」

 せがまれたジョーは、参ったな、と頭を搔いた。

 人に胸を張るような身の上話があるわけでないし、そもそも元々が話し上手なたちでもない。エリーのような資本家の御令嬢を楽しませるような話題を、自分が持っているとは思えなかった。

「大した話は出来ないよ」

「お気になさらないで。退屈な話ばかり聞いてるから。慣れているわ」

 冗談めかして笑うエリーにつられて、ジョーも苦笑いを漏らした。肩の力が抜けて、少しは気安い気持ちで話が出来るような気がした。

「ねえ、貴女は生まれた時からマグダルなの?」

 その問いかけに、ジョーは早くも言葉を詰まらせた。答えにくいという事ではなく、自分でもどう答えていいかがわからなかったからだ。

 腕組みをして、なんて言ったらいいかなあ、と考え込む。

 母親がマグダルなのだから、自分も生まれた時からマグダルのような気もするが、別に何か洗礼のようなものを受けたわけでもない。母親から、貴女はマグダルなのよ、と言われた事もない。マグダルの教義でさえ、ほとんど知らないも同然だ。

 ジョーにとっては、母親の生き方と、彼女が耳元で囁いてくれた祈りの言葉だけが教えの全てだ。

 だから、生まれた時からも何も、今この時だって、自分がマグダルだ、などと胸を張って言えはしない。

 そう思えた事すら、ただの一度だってないのだ。

 結局のところ、考えても答えは出ない、というより、答えなどは無いように思えた。

 ジョーはそのままをエリーに伝え、自分でもわからない、と肩を竦めた。

「結局、半端者なんだよ。私は自分がちゃんとしたマグダルかもわからないのに、周りからはこいつを付けてるだけでマグダル扱いさ」

 そう言って、胸元からペンダントを取り出すと、改めて自分で眺めてみる。

 エリーが一緒になって覗き込もうとすると、ジョーは彼女が見やすいようにペンダントを差し向けてやった。

「これ、私達はシオンの星って呼ぶんだ」

 シオンの星とはマグダルを象徴するシンボルだ。その星を象ったペンダントは、それを提げているだけで、マグダルである、と他人に認識させるのには十分だった。

「ママの形見ってだけなのにな」

 愛おしげにペンダントのシオンの星を眺めるジョーの横顔に、ほんの少し寂しさが滲んだ。

 エリーはそっと身を寄せて、その星を眺めた。

「素敵なお母様だったのね」

「わからないだろ。会った事もないくせに」

「知ったような口を利くのは趣味じゃないけど。貴女を見ていたらわかるわ」

「……そうかい」

 エリーの言葉が、その場繋ぎの軽々な世辞でない事は、表情を見ればジョーにも伝わった。

 その気持ちが本物であると伝わったからこそ、素敵なお母様、という言葉はジョーの心に染み入った。

 ジョーは目を閉じると、素敵なお母様、を瞼の裏に思い浮かべる。

 そして、そっと囁くように、祈りの言葉を紡いだ。


 道に迷う人がいるのなら、手を差し伸べてやりなさい。

 その人が飢えに苦しんでいるのなら、貴女のパンを分けてやりなさい。

 その人が孤独に耐えているのなら、貴女が傍にいてやりなさい。

 その人が苦難に立ち向かう時、貴女も共に在りなさい。

 寄り添う愛が真実ならば、貴女は祝福へと導かれるでしょう。


 もう何回、何十回、何百回となく、母親の声で、頭の中を繰り返し響き渡ってきた祈りだ。

 自分の声でその祈りが響くのを聞いたのは、少なくとも十数年ぶりの事だろうか。

 それでも何度も唱えた言葉のようにそらんじる事が出来たのは、その祈りがそれだけ彼女の血となり、肉となって、ジョーという人間を作り上げているからだろう。

「……まあ、こんな感じ」

 ジョーは恥ずかしさを誤魔化すような口調でそう言うと、照れ臭そうに笑う。

 エリーがマグダルの祈りを耳にするのは初めての事だった。

 生まれて初めて耳にしたマグダルの教えが、生まれて初めて出会ったマグダルの少女の事を、何よりも雄弁に語ってくれたように思えた。

 ジョーが見ず知らずのエリーを助けてくれた事。

 それこそが、ジョーがその教えを大切に守り、受け継いで生きてきた事の証だった。

「……素敵な教えだわ」

「さあ。素敵かどうかはわかったもんじゃないけどな」

「どうして?」

「無償の愛ってやつで生きていけるほど、世の中、上手く出来てないって事さ。特にここではね」

 ジョーはそう言って、自嘲気味に笑うと「実際、綺麗事だと思うよ」と付け加えた。

「でも、そういう生き方を死ぬまで続けた人を見ちまったからな。この祈りを否定したら、その人を否定する事になっちまうだろ」

 それだけはしたくない、と言ったジョーの真剣な眼差しは、大切な人の教えを受け継ぐ事を決めた高潔な想いを湛えていた。

 そういう眼差しを持った人間を、エリーは初めて見た。

 ジョーがエリーに自分とは違う世界を見たように、エリーもまた、ジョーを通して自分の知らない世界を見たのだ。

「私、もっと貴女とお話したいわ。また会える?」

 今日でお別れなんて、と名残惜しそうに切なげな表情を浮かべるエリーを見て、ジョーは困ったように髪をくしゃくしゃと弄った。

「そりゃあ、私だってそう思うけどさ」

「もし、困ってる人に手を差し伸べた先に祝福があるのなら、私達が出会えた事が祝福じゃないかしら」

 エリーの言葉に、ジョーは一瞬だけ眉を顰めたように見えた。

「祈りの言葉の通りなら、私たち、きっといいお友達になれるわ」

 そう言った後で、ジョーが眉を顰めた理由に気付いて後悔した。

 彼女が祈りの言葉を否定出来ないと知ったうえで、その言葉を盾に頼み事をするなんて、意図しての行いではないとはいえ、結果的に狡い事をしてしまった。

 こういう人間がいるから、ジョーはマグダルの教えが綺麗事だと感じるようになってしまったんだ。

 エリーはそう自分を恥じたが、そんな気持ちを知ってか知らずか、ジョーは溜息をひとつ漏らして、しょうがないな、と彼女に笑いかけた。

「そう難しく考えるなよ。友達になるのに祝福なんかいらないだろ」

 そう言って、ジョーは飲みかけの瓶をエリーに向かって突き出して見せた。それがどういう事か、よくわかってない様子のエリーに、さあ、と瓶口を振ってやる。

 エリーは、ああ、と納得したように笑うと「こうかしら?」と瓶口を軽くぶつけて小気味いい音を鳴らした。

「上等」

 そう言って、残りを一口に飲み干して、集積所に投げ捨てた。

「お行儀が悪いわ」

「どこがだよ。ちゃんとゴミ捨て場に捨ててるだろ」

 ジョーはそう言って笑うと、集積所の方を親指で指し示して「君もやってみな」と差し向けた。

「まだ飲み終わってないもの」

 そう言いながら、休み休み、少しずつコーラを口にするエリーを見て「締まらないな、もう」と苦笑いを浮かべる。

「じゃあ、やってみるわね」

 エリーはようやく瓶を空にすると、空瓶を集積所に向かって放り投げた。

 えい、と勢い込んで投げられた瓶だったが、もう少しのところで集積所には届かず、地面に当たってぱりんと乾いた音を響かせた。

「マジかよ、君。そんなに遠くないぜ」

 ジョーは唖然として地面に散らばった瓶の破片を見てから、エリーに目を向ける。エリーはとんでもない事をしてしまったというように大きく開けた口に手を当てて、こちらもまたジョーとは違った意味合いで唖然とした表情を見せていた。

「ごみを投げ捨てる事に少し抵抗があったの。だから思いきり投げられなくって……。大変だわ。どうしましょう」

「どうしましょうって事があるかよ」

 ジョーはまた苦笑しながら集積所へ向かい、散らばった瓶の破片をその辺に立てかけてあった箒でさっさとちりとりに集めると、それを集積所にじゃらりと音を立てて流し入れた。

「気にする事じゃないよ、こんなの。ざらにあるしな」

 掃除道具が近くに立てかけられているのを見れば、その言葉が気休めではない事はわかる。

 事実、ここで働く少女達のほとんどが面白がって瓶を放り投げて捨てるものだから、集積所の周りは破瓶だらけになっている事がままあった。

 その掃除道具も、あまりに散らかっているのを見かねたジョーが、監督員に頼んで用意してもらったものだ。かといって、ゴミ捨て場の周りにゴミが散らばっていたところで、それをいちいち気に留めるものなど仲間内にはそういないので、折を見て掃除をするのはジョーの仕事だった。

 だからジョーにとってこんな事は、確かにざらにある事だった。

「でも、あんなふうに割れてしまって……。困る事ないかしら」

「困るって? 誰がどう困るのさ」

 よほど気に病んでいるのか、エリーは未だ所在なさげに佇みながら集積所の方へ目線をやっていた。

 ジョーはもう一度、気にするな、と重ねて言う代わりに、彼女の背中に手を回してやる。

 その手に少し力を込めて背中を押してやり、彼女の乗ってきた車の方へ、二人で歩き出す。

「廃瓶なんかどうせどっかで溶かされちまうよ。割れてようが、割れてなかろうが、同じさ。瓶だけじゃないぜ。屑鉄だって、そうだよ。いろんなところから、元は何だったかもわからない屑鉄が集まってさ。みんなまとめて、どろどろに溶かされちまうんだ。その後でそれが何になるかなんて、私達の知った事じゃないけどさ。どうせ、みんな溶けちまうって事だけは知ってる。だから、瓶が割れてようが、鉄が錆びてようが、私達の誰も気にしやしないんだ」

 ジョーは前を向いたまま、言い聞かせるような口調でぽつぽつと話すと、最後に「君も気にするなよ」と締めくくった。

 俯きがちに隣を歩いていたエリーが、ジョーの横顔を見上げる。まだ少し気落ちしたように下げていた眉尻を、一度目を瞑って整えた。

「そうするわ。お言葉に甘えて」

 そう言って頬を緩めると、覗かせた青い瞳の上で形の良い眉が弧を描く。ジョーは横目にその微笑を見やると、すぐに目を逸らした。

「さあ、もういい時間だぜ」

 車の前まで歩いてくると、気が付けば陽は西に傾いていた。

 エリーの背中を、ジョーは、ぽん、と叩いてやった。

「先に出なよ。君が出るのを見送ってから帰るから」

 ジョーがそう言うと、エリーは、名残惜しそうに「ねえ、次はいつ会えるかしら」と尋ねた。

 エリーの端正な顔立ちが寂しそうな表情に染まるのを見ると、あまり彼女と目を合わせないようにしていたジョーも目を離せなくなった。

 その物憂い表情はなんとも言えず艶っぽく思えて、美人はどんな表情をしても美人なんだな、と変に感心してしまった。

 そういう顔を向けられては、無碍に扱う事など出来る訳もない。

 まったく、そんな顔をするのはずるい。

 ジョーは困ったようにこめかみを抑えた。

 仕事さえ終われば予定などはいつでも空いているのだから、明日だろうが、明後日だろうが、なんなら毎日会ったって構いはしない。

 だが、流石にそう何度も外の人間と会うのは、仲間たちにも黙っていられない者は出るだろう。

 そんな仲間たちをまとめるアンの面子を考えれば、彼女に無断で勝手に決めてしまう訳にはいかない。

 だからといって、姉貴分に聞いてみないとわからない、と言ってしまうのは、あまりに子供っぽく思えた。

 たとえ逆立ちしたところで身分の違いが変わる事はないとはいえ、少しでも背伸びをして見せたいジョーは答えに困ってしまった。

「じゃあ、明後日は?」

 そうこう迷っているうちに、エリーの方から日取りを提示されてしまい、考える素振りを見せて場を繋いだ。

「ああ、明後日、ね。うん、どうだったかな」

「忙しいの?」

「まあ、ヒマじゃあない、かな」

 しどろもどろに答えたが、あまり長引かせても優柔不断みたいで格好がつかないように思えた。

「……明後日なら、大丈夫」

 結局、断る事が出来ずに思わずそう口にしてしまうと、エリーは目を輝かせて、よかった、とジョーの手を取った。

「じゃあ、明後日はドライブしましょう。私のお気に入りの場所に連れて行ってあげたいの」

「ドライブ。悪くないね」

 張り付けたような笑みを浮かべてはみたが、内心では、不味い事になったぞ、と心をざわつかせてもいた。

 それでも彼女の手前、格好をつけたかったので、そういう気配は押し殺して、何でもなさそうな風を装った。

「約束よ。忘れないでね」

「もちろんさ」

 そう言って運転席のドアを開けてやると、ルーフの縁に手を掛けてやった。

 エリーは、あら、と少し驚いた素振りを見せて「もうすっかり紳士ね」と冗談めかして言った。

「頭にお気を付けて。お嬢さん」

 ジョーにしてみれば、彼女のような人に礼節を褒めてもらうのは、なんだか満更でもなく、素直に冗談に乗ってみせる事が出来た。

「じゃあ、また明後日。同じ時間に来るわ」

「ああ。待ってる」

 それじゃあ、と車内から手を振るエリーに、こつん、と窓ガラスを叩いて応えた。

 エリーの車が、長い一本道を遠ざかっていき、やがて見えなくなってしまうまで見送った頃、ジョーはようやくバンに乗り込んで作業場を後にするのだった。

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