第24話
明け方近く、結花は微かな物音に、目を覚ました。
畳の上に身体を起こして、耳を澄ませる。窓から見える空は薄紫に滲んで、冷たい空気が世界を取り巻いていた。コンコンと小さく、断続的に聞こえる音が、ドアの辺りからすることにようやく気がついた結花は、けれど、すぐには動けなかった。
ドアはいつも開いている。春希はこの部屋の鍵を、結花に渡さなかった。いつでもどちらかがいなくても、この部屋は自由に誰でも出入りできる。そのことは春希自身がとてもよく知っているはずだった。だから、ノックの音が怖くて、結花は身動き出来ずにいた。
「結花ちゃん?」
聞き覚えのある声に、結花は恐る恐るドアまで近づく。
「困ったな。いないのかな」
続けて聞こえる声が、やっぱり知っているような気がして、結花はドアノブを握り締めて低く問いかける。
「誰?」
「結花ちゃん? 僕だよ。リョウ。憶えてる?」
はっとして、結花が大きくドアを開け放つ。懐かしい笑顔に、笑顔を返す前に、結花は両手で口を覆って叫んでいた。
「春希!」
リョウの肩にぶら下がるようにして、ぐったりとした春希がドアの向こうにいた。
「春希! 春希ッ!」
「大丈夫だから、騒ぐな」
取り乱す結花に叱るように言って、春希がアパートの中に入ってくる。どさりとその場に横たわった春希の顔は、紙みたいに白く、今にも死にそうに思えた。
「痛いの? 春希? どっか痛むの?」
「平気だ」
そう答えながら、春希はすっと落ちるように、眠り込んでしまった。
「腿のとこ、撃たれたんだよ」
春希の靴を脱がせながら、リョウが言う。
「でも、かすっただけだから。応急処置も済ませたし、大丈夫だよ」
明るく言いながら、春希の靴を玄関先に並べて戻ってくる。そして、仰向けに寝ている春希の額に手を置いて、眉を顰める。
「結花ちゃん、水、くれる?」
弾かれたように立ち上がって、結花がキッチンに向かう。リョウは春希の頬を軽く叩いて目覚めさせ、そのまま身体を抱き起こし、自分の肩に寄りかからせた。手にした薬を春希の口に含ませ、結花から受け取ったグラスを持たせる。一気に水をあおった春希が、力尽きたように身体を横たえる。
「これで万全。ちょっと熱出ちゃうかもしれないけど、薬も飲ませたし、もう大丈夫。安心して」
安堵を誘うように、リョウは「大丈夫」と繰り返す。けれど「大丈夫」という言葉は、重ねれば重ねるほど、その意味を遠ざけていく。まるで言い聞かせるみたいな言葉全部が、結花には信じられなかった。
「なんで? なんで春希が、」
こんな目にと、続けようとした言葉は涙に飲み込まれて、声にならなかった。
これまで春希は、結花に何も見せようとしなかった。けれど、帰ってきた春希から血の匂いがしたのは、これが初めてじゃなかった。でも、そのことを、結花は心の奥に閉じこめて何も聞かなかった。聞いたら春希が、もう帰ってこなくなるような気がしていた。
今、隣に居るリョウからも、錆びた海の匂いがする。涙が溜まったままの目でリョウを見上げると、リョウ自身、酷く辛そうな顔をしている。少し青ざめたその表情から視線を降ろすと、リョウの濃い色のズボンの膝から下が、じっとりと濡れていることに気づいた。
「リョウ! リョウも怪我してるの?」
「あぁ、平気。僕は自分で出来るから」
慣れた風に言うリョウの言葉を、ユカは受け流すことが出来なかった。痛くないわけがないのに、痛いと言わないふたりに、胸の奥底から熱い塊がせり上がってくる。こんなことを続けていたら、いつかきっと、ふたりとも死んでしまいそうな気がした。
「それより、ごめんね。寝てたんだろう? 起こしちゃって、悪かったね」
「そんなのどうでもいい! 早く手当てしなきゃ。自分のこと、放ったらかしにしないでよ!」
痩せ我慢を続けるリョウを、引っ張りあげて立たせ、風呂場に連れて行く。湯船の縁にリョウを座らせて、そっとズボンの裾を捲り上げる。傷に張り付いている布を剥がす時、リョウの眉がぴくりと動いた。
「痛い?」
「大丈夫だよ」
酷く痛むはずなのに、それでもリョウは口の端をあげて、以前と少しも変わらない笑顔を見せる。
水で血の塊を流す時、春希が結花を切り裂いた日の記憶が、瞬きの速さで蘇った。タイルの上を、水に溶けた血が流れていく。狭い浴室の中で、結花は何度も水を汲んで、リョウの足にかけた。あの日の春希と同じように。
血の塊の下から現れた傷は、思っていたよりも大きくなく、結花がほっと肩で息をする。
「あの傷、良くなった?」
結花の手からタオルを受けとって、傷の周りの水滴を拭いながら、リョウが話しかける。
「うん。もう痛くないよ」
明るく答えると、リョウは自分の傷口を確かめて、くすりと笑う。
「こんなふうに世話焼いてもらったのって、何年ぶりだろう」
傷口から目を逸らさずに、くすくすと笑う。
「僕さ、他人の怪我だけじゃなくって、自分の怪我も診れちゃうからさ、誰も僕のことって構ってくれないんだ。だからちょっと今、感動してる。人に優しくしてもらうのって、気持ちが良いんだってこと、忘れてたよ」
悪戯っぽく言いながら、リョウはポケットから小瓶を取り出して、ざっと傷口にかける。痛みを感じたように眉が寄せられるのに、そうとは気づいていないかのような素早さで、小瓶を放る。白いタイルに琥珀色の小瓶が、乾いた音を立てて転がっていく。結花が渡したタオルで傷の上をぎゅっと縛り上げ、ズボンの裾で傷を隠して、結花の目を見る。
「明るくなる前に、帰らないといけないんだ。悪いけど、このタオル、もらってっていい?」
「帰っちゃうの?」
結花の縋るような声に、優しく笑って、リョウがポンポンと頭を撫でる。
「春希の包帯、替えなきゃいけないから、夕方頃にもう一度、顔出すよ」
そう言い残して、リョウは足を引きずりながら、自分のアパートに帰っていった。
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