第15話
高い窓から溢れるように、朝陽が射しこんでいた。
きらきらと煌めく光りの粒が、翳す掌をすりぬけて、瞼の上に降り落ちてくる。眩しすぎて、開け切れない瞳を擦ろうとした時、ひんやりと冷たい指先が、頬に触れた。
白く滲む視界。覚醒しきれない思考。そのぼやけた何もかもを包み込む、ハルキの黒い瞳。さんざめく陽光。それより深く輝く、オニキスの煌めき。渇いた瞳に映る、翳む視界を眇めながら、ユカはハルキを見つめた。
あの後、ハルキはユカの身体を、綺麗に洗った。
泣いて、泣いて、もう声も出せなくなったユカを、ハルキは抱きかかえ、バスルームまで運んだ。曖昧な意識の中、ハルキの熱い舌先が、ユカの冷えた口腔を辿った。ユカの頭を支える指先が、汗に濡れた髪にさしこまれ、やわらかくユカの耳の後ろを撫でた。
血に汚れた服を、丸めて全自動洗濯機に放り込んだのはハルキだった。ハルキは初めて触るはずの洗濯機に躊躇する様子もなく、慣れた感じで操作する。そんなハルキを、ユカはバスルームの隅で眺めていた。洗濯機のスイッチを押して振り返ったハルキは、微かに微笑んだようだった。そして、そのままつかつかと裸で座り込んでいるユカの前に歩み寄り、シャワーヘッドを手に、ユカの血を洗い流してくれた。
冷たい水が、固まりかけた血を飲み込んで、排水溝へ流れていった。ぱっくりと開いた傷口から血は流れ続け、白いタイルが血だらけになる。止まらない血に、ハルキは小さく舌打ちすると、大き目のバスタオルを襷掛けにして、ぎゅっと縛り上げた。不器用に巻かれたタオルが、それでもいくらか止血の役割をはたしたのか、新しくあてた白いタオルが、すぐ血に染まることはなかった。
ハルキの掌が、ユカの頬に添えられる。
ベッドに腰掛けて、ユカを覗き込むハルキの肩越しに、テディがいる。栗色のテディは変わりなくベッドの隅にいて、ふたりを見ている。その真っ黒な瞳が、初めて、感情をともなわない、ハルキの瞳に似ているんだとわかった。
「出かけるぞ」
言ってユカを抱き起こすと、肩のタオルを外して、新しいタオルを傷口にあてがう。その上から着せられた半袖のシャツは、襟口が切り広げられていて、丁度傷が見えるようになっている。
「どこ、行くの?」
床に散らばる洋服の中から、黒い薄手のカーディガンを選んで、ユカの肩に羽織らせる。
「知り合いのとこ」
短く答えて、ハルキがユカの髪を握る。
ハルキの指先が、ユカの髪に埋め込まれて、そのままスーッと流れていく。ハルキの指先が、ユカの髪を梳く。何度も、何度も、愛おしげに。ハルキの指先が、ユカの髪を梳いていく。
外は昨日と同じ快晴で、何も変わらないように思えた。
ハルキは煙草を吸いながら、狭い道を選んでゆっくりと歩く。けれどユカは傷が痛くて、その足に追いつけない。ハルキは時々振り返ると立ち止まって、ユカが追いつくまで待っていてくれた。
乗り継いだバスと電車は、見慣れたビル街をぬけて、広く開け放たれた場所へと向かう。ことことと走るバスはのんびりと景色を変えて、ユカは随分遠くまで来たような気がしていた。けれど移動していた時間は、それほど長くはなかった。陽はまだ朝の煌きを蓄えたまま、眩くユカとハルキを照らしていた。
そして、最後の停留所に降りたとき、ユカは潮の香りに気づいた。でもそれが海の匂いだとわからなくて、ハルキに問いかける。
「青い匂いがする」
ユカの言葉にくすりと笑って、ハルキが煙草を銜えたまま遠くを指差す。ハルキの指先を追いかけた瞳に、白い砂浜と青い水平線が映って、ユカが目を瞠る。
「海?」
「海」
同じ言葉をくりかえす、ハルキは優しく笑っている。初めて見る海に、ドキドキする。
「初めて?」
「うん」
何もかもを知っているようなハルキの言葉に頷きながら、深く息を吸い込むと、胸の奥が青く、海の色に染まっていくような気がした。
海岸沿いを歩いて、ハルキは赤茶けたトタンに覆われた建物の前で、足を止める。ユカは軽い貧血のような状態になっていて、ハルキがユカを支えながら歩いていた。
「大丈夫か?」
「平気」
本当は、少しも平気じゃなかった。でも、そう言わないと、置いて行かれてしまいそうで、ユカは無理に笑顔を作って、ハルキを見上げた。
「昇るぞ」
目の前の錆付いた階段は、歩くとコンコンと乾いた音を立てる。引き開けた銀色の扉の向こうは薄暗く、日中なのにチカチカと瞬く切れかけた蛍光灯が灯っている。幾つかのドアを素通りして、一番奥のドアまで来たとき、ハルキが小声で呼びかけた。
「俺。開けて」
チェーンを外すような音がして、ドアが開けられた。剥き出しのコンクリートに囲まれた殺風景な部屋に人影はなく、ハルキがユカを、入り口近くのソファーに座らせる。
「こいつ、怪我してんだ。悪いけど、診てくんない」
ドアの陰から、ひょろりと長身の身体が出てくる。ドアノブにチェーンを巻きつけて振り返ったその人は、ハルキの顔を見るなり、眉を顰めた。
「またかよ。いい加減、やんちゃやめれば?」
「あんたに言われたかないね」
ぶっきらぼうに言い合って、お互いが笑顔になる。見るからに優しそうなタレ目を一層細くして笑うその人を、ハルキはリョウと呼んだ。
なんとなくぼんやりして、ソファーに深く腰掛けたまま動けずに居るユカを、リョウが覗き込んでくる。ぱちんと瞬くと、口元だけで笑んで見せる。その笑い方が、ハルキに似ていて、ユカもなんとか口の端を上げて、笑顔で応えようとした。でもそれは、思うように上手くはいかなかった。
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