第13話

 手入れの行き届いた、純和風の庭園。石畳の脇には色とりどりの花が咲き、丸く剪定された松が玉砂利の上に鎮座している。本宅の脇の小道は竹藪が茂り、その向こう側に小さな離れがある。その玄関前に立って、ユカは細く息を吐いて気持ちを整える。ぎゅっと唇を噛み締めて、磨り硝子がはめ込まれた格子戸を引き開ける。古い引き戸の、がらがらとおんぼろな音が、庭の静寂を揺らす。


「お帰りなされませ」


 しゃんと背筋を伸ばした老婆が、踏み台の上から、無表情にユカを見下ろす。


「お金、取りに来たんだけど」

「準備は出来ております。そのままお待ちください」


 家には、上がらせない。たとえ「離れ」であろうとも。きっと、この場所にユカが立つことすら、この家の人たちは穢らわしく思っているんだろう。ユカをないものと決めつけた人たちの冷たさは、慇懃無礼な老婆の対応に凝縮されている。

 後ろに立ったハルが、ユカの腕を掴む。前を向いたまま、ユカはその腕を無言で振り払う。震えていることを、ハルに知られたくなかった。


 ワインレッドの、見慣れたブランドのセカンドバックを持って、老婆がしずしずとユカの前に立つ。


「こちらのなかに」

「ありがとう」


 言って受け取るユカに、剣のある眼差しが向けられる。


「お遊びも、ほどほどになさいませ」

 老婆の強い視線は、ユカの足を、その場に縫い付ける。


「それ、あの人が言ったの?」

 問い返す声は、臆病そうに小さくなる。


「だんな様は、なにもおっしゃいません」

 くっと短く笑った老婆が、嘲るような視線を、ユカに投げかける。

「穢れた血に、何を言っても無駄だと、よくご存知ですからね」


 ざっとユカの目の前に腕が飛んで、それがハルの腕だと気づいたユカが、その腕に縋りつく。


「やめて!」


 ぶるぶると震える腕は、それでも、ユカの必死の叫びに応えるように、すっと下ろされた。ハルの激昂を目の前にしながら、老婆は少しも驚いた風を見せないまま、すっと奥にさがっていく。その後姿が、ぼんやりと闇に沈んでいった。


 お金はいつも、欲しいだけもらえた。ユカがいないふりさえしていれば。何もしなければ、生きていてもいい。そう許された日のことを、ユカは鮮明に憶えている。


 あの時、ユカだけが生き残った。そのことを、喜ぶ人はいなかった。


 ユカに残された傷も、ユカが死ななかったことも、全部がいけないことだったのかもしれない。ハルは「助かって良かったな」と言ってくれたけれど、そう思ったことは、これまで一度もなかった。


 いつもユカが連絡をする、サングラスをかけたあの人が、自分にとっていったいなんなのか、それすらユカは知らない。一度だけ、この家を出て行く日に逢ったその人は、これからのことを話す時でさえ、サングラスを外さなかった。ユカに触れることはもちろん、近寄りもしなかった。


 そして、はじめてこの家でお金を受け取ったときから、あの老婆の嫌悪に満ちた視線は変わらない。老婆の凍るような言葉の全てが、きっとこの家の人たち全部の思いなんだろうと、そう信じ込むに充分な年月が、ユカにはあった。



「なんなんだよ、あれは!」


 白い石塀が途切れると同時に、ハルが吐き捨てるように言った。それまでハルは、ただのひと言も話さなかった。マンションを出てからずっと、ハルは黙ったまま、ユカの後ろにいた。


「あそこは、ママの家なの」

 もう見えなくなった日本家屋を振り返って、ユカが言う。

「お金がなくなったら、私は、あそこに行くの」


 ユカが何もしないために、お金で片がつくなら、こんなに楽なことはないと言わんばかりに、彼らは札束をユカに投げつける。それを犬のように拾いながら、ユカは生きてきた。

 傾きはじめた夕陽が目にしみて、ユカは泣いてしまいそうな気分になる。家の方角を見つめたまま、動けなくなったユカの指を強く握って、ハルは「帰るぞ」と、言い聞かせるように言った。


 マンションに帰りつくまでずっと、ハルはユカの手を離さなかった。

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