第11話
ハルが外で何をしているのか、気にならないわけじゃなかった。
ハルは帰ってくるといつも酷く疲れていて、不機嫌そうな表情をしていた。それはもちろん、ユカのせいではなく、翌日にはいつものハルに戻るけれど、ユカはハルの不機嫌さが自分のせいのような気がして、落ち着かなくなる。それでも一緒に居たくて、何も訊かないまま、ハルの傍にいた。
その日、ハルの爪は折れていた。ユカが染めたシルバーの爪が、折れていた。
ハルが帰ってすぐに、ユカはそのことに気づいたけれど、口にはしなかった。ただ、ベッドに入ったとき、黙ったまま、その指先を口に含んだ。少し痛んだのか、ハルの細い眉が、ぴくっと寄せられる。
「ハル……」
折れた爪からは、鉄の臭いがした。口の中に広がる、赤く錆付いた味に不安になって、溜息のように呼ぶと、ハルがそっと口付けてくる。
抱きしめられると、身体全部をくっつけたくなる。どんどん隙間を、埋めたくなる。少しも離れていたくない。
鼻の奥がツンと痛んで、ユカがハルの肩に瞼を押し付ける。髪を撫でていたハルの指が首筋を辿って、肩に触れる。ぐにゃりと引き攣れた傷痕を軽く噛んで、舌を這わせる。傷口を開くように歯を立てながら、くぐもった声で問いかけてくる。
「これ、どうしたの?」
知っているくせに、まるで初めての日のように、ハルが聞く。
いつもいつも、繰り返される問いかけ。ハルはユカに、あの日のことを話させたがる。あの日のことを思い出すのは辛い。怖くて、身体が震えてくる。けれどハルは必ず、この話を聞きたがる。そして、ユカが話すまで、ハルの問いかけは続く。
「ママが……、ナイフで、……私を切ったの……」
だからユカは、わかり切っている言葉を、
「それから?」
ハルは全部をユカに言わせようとする。指で傷をなぞりながら、まるでひとつの決まりごとのように、同じ速度でユカを追い詰めていく。ハルの唇が、ユカの首筋を辿って、傷痕に吸い付く。ハルに触れられる場所が、何かが生まれては消えていくように、ふつふつと熱くなる。
「ママが、ママが笑いながら、私を、引き裂いたの!」
記憶の中でさえ鮮やかな、ママのナイフ。にこにこと笑いながらナイフを振り翳すママは、まるで別の生き物のようだった。何度呼びかけても応えない。何を聞いても、全然通じない。
「怖かった?」
跡が残ってしまうくらいに、ハルはユカの傷に歯を立てる。皮膚の内側に食い込んでくる歯の感触が、身体の奥底に眠る刃の感触を蘇えらせる。怖くて、ユカはハルの胸を押して、身体を離そうとする。それでも、器用に絡め取られた身体はびくともしない。ハルが耳元で囁く。
「それから?」
ユカは懸命に、その続きを思い出そうとする。
痛かった。着ていた服に、見る見る血が滲んでいった。床が血でべとべとになって、ユカは血で足を滑らせて、何度も転んだ。転ぶたびに身体が血で汚れて、身体のどこもかしこも、赤黒く濡れていった。倒れたママは、首から血を噴き出しながら、それでも、ヒクヒクと笑っていた。
怖い。あの時のことを思い出すと、怖くて身体が震えだす。足も指も何もかもが、がくがくと鼓動を刻みだす。自分でもわかるくらいに、身体が震えて止まらない。
ユカの指先が、おぼれていく人のように、ハルに縋りつく。助けを懇願する指先に、ハルが口付ける。縋りつくユカの髪を撫でながら、ハルはユカの耳に、吐息のように囁く。
「おまえ、ずっとひとりきりで、この部屋にいたの?」
混乱する思考を掻き分けて、ハルの言葉がぽとんと、胸底に落ちていく。
「飽きてこねーか? ひとりに」
「寂しいって、言えよ」
何かが押し寄せてくる。自分ではどうしようもない感情が、ユカの全てを浸蝕して、我慢できなくなる。何かが音を立てて、崩れていく。認めたくなんかない。寂しいなんて惨めなこと、認めたくなんかない! でも……、本当は……、
「……ハル」
ユカは、誰かに聞いて欲しかった。ずっと、誰かに訊かれるのを、待っていた。
「……さみしい、よ」
寂しいよ。ハル。私は、いつでもずっと、寂しかった。
―― だから、どこにも行かないで。
言葉に出来ない本当が、胸を突き破ってしまいそうになる。
―― ずっと、ずっと、傍にいて。
でも、言わない。
言ってしまったら、何もかもが終ってしまいそうな気がしていた。何が終るのかもわからないのに、わからないことにまで怯えていた。
「ユカ」
艶めくハルの呼びかけに、瞼が熱く滲んでいく。耳元にかかるハルの吐息が、ハルの寂しさのような気がして、涙が零れた。
翌朝、ユカが目覚めたとき、ハルは既に出かけた後だった。
朝から出かけたことは、今まで一度もなかった。想像すらしたくなかった不安な予感そのままに、ハルはユカのマンションに、帰ってこなくなった。
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