第6話
そこから先は、夢の中の出来事のようだった。
現実感がまるでなく、起きているのか、寝ているのか、それすらはっきりしない。全てが幻のように曖昧だった。どちらがどう動いてベッドまで行ったのか、ユカにはよくわからなかった。気づいたときには、ハルとふたり、ベッドの中で抱き合っていた。
ハルの舌が、ユカの傷の上を這っていく。ハルが執着する傷が、なにかの器官のように脈打ちだす。いままで見ることもしたくなかった醜い傷の全てが、ハルの舌になぞられて、どんなふうに肌を切り裂いているのか、はっきりと感じられる。テディベアが、床に落ちて転がったまま、ふたりを見ている。ひとりでは広すぎるベッドが、ハルとふたりでいると、丁度いいことに気づく。
何をされているのか、よくわからない。何をしているのかも、わからない。
でも、ハルの冷たい指先は優しくて、ハルの身体は暖かい。こんな優しい温度を、こんな優しい指先を、ユカは今まで知らなかった。素肌で触れ合うことが、こんなにも気持ちいいなんて、ずっと知らなかった。
「嫌、じゃない?」
「嫌、じゃない」
答えるユカに、ハルが口元だけで笑う。そして、すっと遠くを見るような眼をして、何かの皮を剥くようにユカの傷を撫でる。
「これ、誰にやられた?」
本当のことを知っているように、ハルが聞く。
誰にも言ったことはなかった。この傷は、子供の時の怪我でしかない。身体の中に残っている刃の感触はユカの見た夢で、だからあれは現実なんかじゃない。自分で自分を騙し続けた嘘が解かれていくような感覚に、ユカがただ首を振る。ハルの顔を、見ることが出来なかった。
その頭を抱えるようにして、ハルがユカを自分に引き寄せる。そして宥めるようにユカの背中から腰を撫でる。
「自分で、やった?」
首も、肩も、傷痕も。ハルの唇の通る場所が、ハルの指先が触れる場所が、熱くなる。
「ち、がう」
ただの怪我だと言おうと思うのに、言葉が出ない。指先に触れるハルの胸から、ハルの鼓動が伝わってくる。
ハルの鼓動が聞きたくて、ハルの胸に顔を埋めた。伝わってくる微かな振動を感じたくて、ハルの胸に耳を押し付ける。ハルはユカの肩を押さえつけ、味わうようにゆっくりと、傷を舐めている。
「じゃ、誰?」
ハルはもう、ユカを傷つけたのが誰か知っていて、わざと言わせようとしている。そんな気がした。あの時のことを思い出して怖くなって、ユカの身体がぶるぶると震えだす。力の入らない手で、ハルの髪を握る。なにかにしがみ付いていないと、壊れてしまいそうだった。あんまり、怖くて。
「ハル、……黙って」
もう、声にするのが追いつかない。
「なんで? ちゃんと答えろよ」
それでもハルは、問うことをやめない。
身体の奥や傷痕が、ざわざわする。背中を滑り落ちる、ぞくぞくとした感覚は、けれど熱くて、息を殺してハルの手や舌の動きを追いかけた。それすらもう、追いつけなくなったとき、ハルの指がユカの中に入ってきて、喉の奥から猫の鳴き声のような声が漏れた。
「……いって……」
艶めいて落とされるハルの声に、従いたいと思うのに、どうすれば普通に呼吸できるのか思い出せなくて、ユカが唇を噛む。息を吐くたびに、全身が心臓になったみたいに熱く脈打って、手も足もばらばらに感じて、うまく動かせているのかわからない。ハルの指が自分の中で動くたびに、喉から声が漏れるのを堪え切れなくて、唇が切れてしまいそうだった。
速い呼吸を繰り返すユカの中から、指先が抜かれ、一気に貫かれる。
ハルが、ユカに、何かを言った。けれどハルの声は、ユカの耳には遠すぎた。聞こえない言葉がもどかしくて、入り込む熱さがいっぱいすぎて、ぽろぽろと涙が零れた。噛み締めた歯の隙間から押し出すように「痛い」と言葉が漏れて、ハルの髪を掴んだ。どうにかして痛さから逃げ出したくて、その方法を熱くなった頭の中で懸命に考えていた。
「ハル、……ハ、ル」
呼びかけは、ハルに届いたんだろうか。
―― この傷は、ママが、……ママが私を、切り裂いたんだよ ――
何もかもを言ってしまえば、楽になれるような気がして、ユカは心の中で何度も繰り返した。けれどそれが声になったのかどうか、ユカにはわからなかった。
心臓が千切れてしまいそうな鼓動が、ハルのモノなのか、自分のモノなのか、それすらわからなかった。互いの逸る鼓動が、絡まり合っていく。壊れ物を抱くように、緩やかにユカを導くハルの愛撫に、身体が溶けていく。貫かれているはずの身体が、甘い疼きのなかで、静かに昂りつめていく。
逸る鼓動のさざめく音が、意識が飛び立つ羽ばたきのように、ユカの耳に谺していた。
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