影を捨てて
ざるけん
第一章 影の遺児 第一節 拾われる孤児
――雨が、江戸の夜を容赦なく叩いていた。
路地裏は泥と腐臭に満ち、瓦屋根から滴る水が、痩せた童の肩を打ち続ける。
人の気配はすでに消え、格子戸の向こうに灯る明かりも、笑い声も、すぐに雨音にかき消された。
その隅に、ひとりの童が蹲っていた。
七つか八つの年頃。
骨ばった膝を抱え、薄布一枚で身を包み、震えている。
泥にまみれた髪、虚ろな瞳。
だがその目だけは、闇の中に微かな光を宿していた。
母は疫病で死に、父は賭場で斬られた。
家も名もなく、残されたのは飢えと恐怖だけ。
泥水に浮かぶ芋の皮を拾い、砂ごと口に運ぶ。
喉が鳴る。
胃が軋む。
そのとき、草履の音が雨に紛れて近づいた。
じゃり――。
童は顔を上げた。目の前に、黒い裾が立っていた。
黒。
ただ、黒。
雨を吸い込んでもなお深く沈む、夜そのもののような黒。
人の形をしているのに、そこに立っていたのは影だった。
声が、頭上から落ちてきた。
「……生きたいか」
童は答えられなかった。
喉は乾ききり、声も涙も出ない。
ただ、瞳だけがその問いに縋っていた。
冷たい手が肩を掴む。
骨のように細いのに、抗えない力がある。
童の体は泥から引き上げられた。
「ならば、刃になれ」
意味は分からなかった。
だが、その声には拒絶を許さぬ響きがあった。
童は引きずられるまま、雨の闇へと呑まれていった。
辿り着いたのは、町はずれの屋敷だった。
高い塀に囲まれ、灯は獣の目のように低く瞬いている。
入口には番人らしき影が二つ。
童が通っても、まるで人形のように動かない。
土間に入ると、桶の水が頭から浴びせられた。
冷水が泥と血の臭いを洗い流す。
濡れた布を剥がされ、粗末な麻衣を着せられる。
その手つきに感情はなく、ただ汚れた道具を清めるような冷たさだけがあった。
広間に通されると、白髪交じりの男が待っていた。
蝋燭の光に照らされたその瞳は、鋼のように冷たい。
「名がいる」
男は木札を差し出した。
墨で書かれた一文字――「三」。
「三の札、郎党の“郎”を継げ。おまえは誠三郎だ」
名が与えられた瞬間、胸の奥で何かが鳴った。
それは希望ではない。
生きるしかないという、静かな覚悟だった。
夜更け、板の間に寝かされた。
雨音は遠のき、代わりに鞭の音が響いていた。
空気を裂く鋭い音。
呻きも泣きも聞こえない。
ただ、規則正しい打音だけが闇に響いていた。
誠三郎は布切れのような布団にくるまり、瞼を閉じた。
眠りは来ない。
瞼の裏には、雨の路地、黒衣の裾、そして「刃になれ」の言葉が焼き付いていた。
その夜、童は死んだ。
そして誠三郎が生まれた。
それは、光の届かぬ道を歩む者の、最初の一歩だった。
(第一節 了)
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