外伝4 体調不良


 初夏の光がまぶしく庭を照らすある朝のこと。

 セリーヌは鏡台の前で髪を整えながら、小さくため息をついた。


 ――また、胸が重い……。


 ここ数日、身体の怠さと吐き気に悩まされていた。侍女たちには「少し疲れているだけ」と言ってごまかしていたが、今朝は特にひどい。顔色も悪いと何度も心配された。


 けれど、レオンハルトに気づかれるのが一番怖かった。

 彼はきっと大げさに心配し、すぐに医師を呼び寄せるに違いない。彼の過保護さは愛情ゆえとわかっていても、時に息苦しいほどだ。


「今日は大丈夫……」

 そう自分に言い聞かせ、笑顔を作って食堂へ向かった。




 食卓では、すでにレオンハルトが待っていた。

 彼は新聞を手にしていたが、セリーヌの足音を聞くとすぐに顔を上げ、険しい表情になる。


「……顔色が悪いな」

「えっ……?」

 鏡で誤魔化したはずなのに、彼の鋭い目はごまかせなかった。


「セリーヌ、無理をしているだろう。すぐに医師を呼ぶ」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 慌てて彼の腕を掴む。


「大げさですわ。ただの寝不足かと……」

「寝不足で、そんな青ざめるはずがない」


 低い声で言い切る彼に、セリーヌは観念した。

 結局その日のうちに医師が呼ばれ、診察が行われた。




 診察を終えた老医師は、眼鏡の奥の瞳を優しく細め、告げた。


「ご夫人はご懐妊されています」


「……え?」

 セリーヌの頭が真っ白になった。

 そして次の瞬間、レオンハルトが立ち上がった。


「本当か!?」

「間違いございません。奥方は妊娠初期に入っております。しばらくは安静に過ごされるのがよろしいでしょう」


 医師が退出すると、室内には二人だけが残った。

 レオンハルトは信じられないというようにセリーヌを見つめ、やがて彼女の手をぎゅっと握りしめた。


「……子供が……私たちの子が」

 低く震える声。

 セリーヌは頬を紅潮させ、恥ずかしそうに視線を伏せた。


「私……本当に……?」

「ああ、間違いない」


 レオンハルトはその場に膝をつき、彼女の腹にそっと手を添える。

「ありがとう、セリーヌ。お前が私に新しい命を授けてくれた……」


 その真剣な表情に、胸がいっぱいになる。

 けれど同時に、不安も押し寄せた。


「私……母になれるでしょうか。ちゃんと……」

「心配はいらない。私がいる」


 彼の瞳は揺るがなかった。

「お前は優しい。必ず良い母になる。……そして、私はどんなことがあってもお前を守る」


 セリーヌの目に、涙が滲んだ。

「……ありがとうございます」




 それからの日々、屋敷の空気はがらりと変わった。

 レオンハルトはセリーヌを誰よりも大事に扱い、歩くときは必ず手を添え、食事も医師の指示に従って献立を変えた。


「そこまでしなくても大丈夫ですわ」

「いいや。大事な身体だ。お前だけのものではない」


 その頑なな言葉に、セリーヌは苦笑した。

 ――やっぱり過保護。

 けれど、その過保護さが今は心地よくもあった。




 ある夜、二人は庭のベンチに並んで座っていた。

 月明かりが柔らかく降り注ぎ、夜風が心地よい。


「セリーヌ」

「はい?」

「私は……ずっと、力でお前を守ることばかり考えてきた。だが今、お前が新しい命を宿していると知って……守るということの意味が変わった」


 その横顔は、静かな決意に満ちていた。


「これからは、力だけでなく……愛情でも守りたい。お前と、そして子供と、共に生きたい」


 セリーヌの胸に温かさが広がる。

 彼がこんな言葉を口にする日が来るなんて――。


「私も……あなたと一緒に、この子を育てたいです。三人で、幸せに」


 二人はそっと手を重ね合い、夜空を見上げた。

 そこには一際明るい星が瞬き、未来を祝福しているかのようだった。




 その夜、セリーヌは静かに眠りにつきながら思った。

 ――私は一人ではない。

 彼と、この子と。これから新しい日々が始まるのだと。


 胸の奥で小さな命が息づくその感覚が、何より確かな「幸せの証」だった。

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