第38話 迫る影


 厚いカーテンに閉ざされた部屋。

 セリーヌは縛られた手首に鈍い痛みを感じながら、息を吐いた。

 隣ではカトリーヌが必死に縄を解こうと指先を動かしている。


「……駄目だわ。こんなに固く結ばれていては。」

「カトリーヌ様、どうか無理はなさらないで。」


 セリーヌの声はかすれていた。

 けれど、その瞳はまだ諦めてはいなかった。


「でも、このままでは……兄様はきっと、もっと酷いことを……!」

「大丈夫。……公爵様は、きっと来てくださる。」


 自分に言い聞かせるように、セリーヌは呟いた。

 胸の奥に広がる不安を必死に押し殺す。――彼は私を愛していない、そう思わされたばかりだ。それでも。

 信じなければ、心が折れてしまうから。


 


 夜明けの薄明が街を染め始めるころ、グレイヴ公爵邸では静かな緊張が満ちていた。

 王室騎士団の隊長が到着し、レオンハルトと向かい合う。


「証拠は確認した。これだけ揃っていれば、王命を持ってヴァロア家を糾弾できる。」

「感謝する。――だが、彼らは決して素直に応じはしないだろう。」


 レオンハルトの声音は低い。

 胸の奥で煮えたぎる焦りを隠しながら、鎧の上にマントを羽織る姿は冷徹そのものだった。

 だが彼の心にあるのはただ一つ。セリーヌを取り戻すこと。



 扉が開き、冷たい足音が響く。

 現れたのはエドモンだった。ゆったりと歩み寄り、縛られた二人を見下ろす。


「どうだね? 公爵夫人。まだ旦那が助けに来ると信じているのか?」

 挑発するような笑みに、セリーヌは唇を噛んだ。


「……来てくださる。必ず。」

「強がりだな。だがその震える肩が、答えを語っている。」


 エドモンの視線がカトリーヌへ移る。妹の顔を見下ろし、冷たく言い放った。

「そしてお前もだ、カトリーヌ。余計な口出しをした罰だ。しばらくそこで反省していろ。」


 カトリーヌは怯みながらも必死に訴える。

「兄様……こんなことをしては、ヴァロア家は……!」

「黙れ。グレイヴが蔓延るくらいなら、ヴァロアが国を導くべきなのだ。――この国にとってもな。」


 


 街道を駆ける馬の蹄が朝霧を切り裂いていた。

 王室騎士団百名を率い、レオンハルトは先頭に立つ。

 その横顔は冷徹に研ぎ澄まされているが、内心は灼けるような焦燥で満ちていた。


「公爵様、ヴァロア家はそう簡単に門を開かぬでしょう。」

 副官の声に、レオンハルトは短く答える。


「構わん。門を閉ざすなら、それがすなわち罪を認める証だ。」


 マントが風に翻り、騎士団の旗が朝日にきらめいた。

 決戦の刻は、目前に迫っている。


 


 セリーヌは閉ざされた部屋で目を伏せた。

 ――どうか、どうか……。

 胸の奥で小さく願う。彼が来てくれることを。自分を愛していなくても、せめて義務のためにでも。

 それでも、ただ一目でいい。彼に会いたかった。


 カトリーヌがそっと囁く。

「きっと来ますわ、セリーヌ様。……あの方は、あなたを見捨てたりしない。」


 その言葉に、セリーヌの瞳に小さな光が宿った。

 彼女の心はまだ、折れてはいない。


 


 そして――。

 ヴァロア邸の高い城壁が、遠くに姿を現した。

 レオンハルトは馬上でその影を睨み据え、低く呟いた。


 冷たい朝の空気を切り裂きながら、王室騎士団の進軍が屋敷を包囲していった。


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