第24話 両親の眼差し


 訪問の日は、思いのほか早くやってきた。

 セリーヌは朝から胸が落ち着かなかった。伯爵家にいた頃、伯爵令嬢としての礼儀作法はある程度学んできたが、それでも――グレイヴ元公爵夫妻を迎えるとなれば話は別だった。


 レオンハルトの執務室で前夜に打ち合わせを済ませてはいた。寝室の扉から共に出入りすること、食事の席では自然に隣に座ること。互いに干渉しない「白い結婚」を続けてきた二人にとって、これらはどれも不自然なほどの距離の近さであった。


 だが今は、それをやり遂げなければならない。


 昼過ぎ、立派な馬車の音が石畳に響き、屋敷の玄関が慌ただしくなる。セリーヌは深呼吸を一度してから、レオンハルトと並んで出迎えの場所へ立った。


 扉が開き、まず降りてきたのは堂々たる体躯の元公爵――ギルベルト・グレイヴ。その後ろから、上品で凛とした面差しをもつ元公爵夫人――クラリッサ・グレイヴが続いた。


「父上、母上。遠路はるばるお越しくださりありがとうございます」

 レオンハルトは恭しく頭を下げ、横に立つセリーヌへと視線を促した。


 セリーヌは緊張で喉が渇くのを感じながらも、優雅に裾を持ち上げて会釈した。

「はじめまして、セリーヌと申します。このようなご縁をいただき、心より感謝申し上げます」


 クラリッサの目が、鋭いがどこか探るような色を帯びてセリーヌを射抜く。ギルベルトは腕を組み、静かに頷いた。


「なるほど……」

 クラリッサが短く声を漏らす。その意味を量りかね、セリーヌは胸をざわつかせた。



 昼食の席は、重苦しい空気に包まれていた。長いテーブルの中央に豪華な料理が並ぶが、セリーヌは味を楽しむ余裕などなかった。


 クラリッサがナイフを置き、口を開いた。

「レオンハルト。貴方が『心から愛する女性と結婚した』と手紙に書いてきたのを覚えています。……それが彼女なのね」


「……ええ」

 レオンハルトは一瞬ためらいを見せたが、毅然と答えた。その横顔を見て、セリーヌは心臓が早鐘を打つ。


「では、セリーヌさん」

 今度はギルベルトの重厚な声が飛んでくる。

「息子のどんなところを、愛しているのですか?」


 一瞬、息が止まった。

 彼を愛しているわけではない。契約で結ばれた関係。だが、ここで真実を言うわけにはいかない。


 セリーヌは微笑みを浮かべ、言葉を紡いだ。

「……公爵様は、とても誠実で、誰よりも責任感の強いお方です。そんなところに、安心と尊敬を抱いております」


 自分でも驚くほど自然に言葉が出た。

 レオンハルトがわずかに目を見開き、そして視線を逸らす。その耳が赤らんでいるのをセリーヌは見逃さなかった。



 食後、夫妻は屋敷を案内してほしいと申し出た。セリーヌは緊張を抱えながらも、マルグリットと共に応対する。


 庭を歩いていると、クラリッサがふと立ち止まった。

「セリーヌさん。貴女、庭師とも気さくに話していたわね」


「えっ……はい。皆さんとても温かく、つい色々と教えていただいて……」


 クラリッサの目が細められる。その中に、厳しさだけでなくわずかな柔らかさが垣間見えた。

「ふふ。なら、屋敷も息づくはずね。奥方が使用人と良い関係を築くのは大切なことよ」


 その言葉にセリーヌの胸が熱くなる。自分がしてきたことが無駄ではなかったと、初めて認められた気がした。



 夜、寝室へ向かう廊下を歩きながら、セリーヌは今日の出来事を反芻していた。


 寝室の扉を開けると、レオンハルトが待っていた。二人は視線を交わし、同時に小さく息をついた。


「……なんとか切り抜けられましたね」

「あぁ」

「明日も気を引き締めて、頑張りましょう」


 セリーヌは明るい声でそう言い、にこりと微笑む。

 その屈託のない笑みに、レオンハルトの心はなぜか沈んだ。彼女は本当に“芝居”として割り切っているのだ――そう突きつけられた気がしたからだ。


 セリーヌが軽やかに自室の方へ去っていく背を、レオンハルトは黙って見送った。


 胸の奥に小さな疼きが残る。

 それがなんなのか、自分でもまだ分からなかった。

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