第15話 初めての言葉
その日もセリーヌは、使用人たちと談笑していた。
午前の家事を終えた者たちが集う休憩の時間。木製のテーブルの上には湯気の立つお茶と素朴な菓子が並んでいる。
「奥様、どうぞこちらに」
「ありがとう。……まあ、この焼き菓子、いい匂いね」
「さっき厨房で焼いたばかりなんです」
温かなやり取りに、笑い声が混じる。
セリーヌはその輪の中に自然と座り、決して主として振る舞うことなく、同じ目線で会話を続けていた。
――そんな彼女を、レオンハルトは廊下の陰から見ていた。
(まただ……)
気づけば、何度目になるのか。
仕事の合間、執務室に向かう途中、足はいつもこの場に止まってしまう。
彼女が笑うと、場の空気が柔らかくなる。
それを遠くから見ているだけで、自分の心までほぐれていくような感覚に襲われるのだ。
やがて休憩が終わり、使用人たちは散り散りに仕事へ戻っていった。
セリーヌもまた立ち上がり、マルグリットと並んで廊下を歩き始める。
その姿が自分の前を通り過ぎると分かった瞬間――レオンハルトは、反射的に口を開いていた。
「……セリーヌ」
その名を呼ぶ声に、彼女の足が止まる。
振り返った先に立っていたのは、公爵――レオンハルトその人であった。
「……公爵様」
セリーヌは驚いたように瞬きをし、すぐに控えめな礼をとる。
普段、彼から声をかけられることなどなかった。
だからこそ、静かな廊下に響いた呼びかけは、彼女の胸を少しだけ高鳴らせた。
レオンハルトは数歩近づき、低い声で言った。
「……使用人たちと、よく話をしているようだな」
「ええ。皆さん、とても親切にしてくださいますから」
穏やかな笑みを浮かべるセリーヌ。
だがレオンハルトの目には、それがただの笑みではなく、温かく人を包み込む力を持ったものに映った。
(なぜ……こんなにも自然に……)
喉の奥に言葉が引っかかる。
普段ならば余計な会話を避け、必要な言葉しか口にしない彼が、なぜか次の言葉を探していた。
「……その……迷惑ではないのか?」
「迷惑、ですか?」
「公爵夫人が使用人と同じ席につくなど……周囲はそう思わぬかと」
セリーヌは小さく笑った。
その笑いは、自分を揶揄するものではなく、むしろ柔らかく彼を受け止めるものだった。
「いいえ。むしろ、皆さんが心を開いてくださって、私は嬉しいのです。ここに来て、ようやく自分の居場所を見つけられたような気がしますから」
その言葉に、レオンハルトは息を呑んだ。
――居場所。
彼にとってこの屋敷は、幼いころから背負わされ続けてきた「責務」の象徴でしかない。
だが彼女は同じ屋敷の中に、温かい居場所を見いだしているという。
レオンハルトはほんのわずかに視線を逸らし、低く呟いた。
「……そうか」
短い返事だった。
だがその声音には、これまでにない柔らかさが滲んでいた。
セリーヌが立ち去ったあとも、レオンハルトはその場に立ち尽くしていた。
胸の内に生じた小さなざわめきが、いつまでも消えなかった。
白い結婚――ただの契約にすぎないはずだった。
だが、気づかぬうちに、彼女は彼の心の奥へと静かに踏み込んでいた。
(……居場所、か)
その言葉を繰り返すたび、胸の奥がじんわりと温かくなる。
それは、レオンハルトがこれまで一度も抱いたことのない感覚だった。
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