第9話 お飾りの妻


 結婚してから数日が経った。

 公爵家の生活にも、ようやく目が慣れてきたとはいえ、セリーヌの胸にはぽっかりとした空洞が広がっていた。


 朝、きちんと起きて身支度を整え、食堂へ向かい、質素ながらも丁寧に食事をとる。

 その後は特にすることもなく、館の廊下を歩き、庭に出て、景色を眺める。

 忙しかったアルヴァン伯爵家での日々に比べれば、あまりにも静かすぎた。


「……私、このままでいいのかしら」


 ぽつりと呟いた声は、広すぎる自室に吸い込まれていった。


 伯爵家にいたときは、母の看病もあれば家計の手伝いもした。領地の干ばつが続き、領民に配る食糧の調整まで兄と一緒に計算していた。

 なのに今は、公爵夫人としての務めも告げられない。ただ「妻」という席に座っているだけ。


 居ても立ってもいられなくなったセリーヌは、ある日の午後、執事フランツを呼び止めた。


「クラウス。私に、公爵夫人として何か務めはありますか? 帳簿をつけたり、行事を取り仕切ったり……」


 執事は目を瞬かせ、ほんの少し困ったように眉を下げた。

「恐れ入ります、奥様。その件につきましては、公爵様にお伺いしなければ」


「そう……。お願いできますか?」


 セリーヌは微笑み、深く頭を下げた。



 クラウスはその日のうちに主へ伺いを立てた。

 執務机の前に座るレオンハルトは、書類から視線を上げもしない。


「公爵夫人が役割を求めておられます。帳簿や……家政に関わる務めを」


「必要ない」


 鋭く切り捨てる声に、クラウスの胸がわずかに痛んだ。


「……ですが、従来の夫人の務めを――」


「私は妻に何も求めていない。彼女はただの“お飾り”だ。余計なことをさせる必要はない」


 その言葉は冷たくも揺るぎなく、クラウスには反論できなかった。

 胸の奥に、わずかな憐憫を抱えながら、そのままセリーヌに伝えに行く。



 セリーヌは返答を聞いたとき、一瞬だけ表情を失った。

 だが、すぐに唇を結び、笑みを作る。


「……そう。分かりました。ありがとうございます」


 執事の前で涙を見せるわけにはいかなかった。

 けれども、心の奥に沈む言葉は重く鋭い。


(私は、この家に何も求められていない。ただ、三年後に離婚するまで、空席を埋めるだけの存在……)


 胸がきゅうと締めつけられる。


 だが、セリーヌは俯いたまま拳を握った。


(それでも、私は何かをしなくちゃ。三年後、離婚したときに生きていけるように――)


 思い出したのは、実家で唯一の慰めだった趣味。

 古びたスケッチブックに描いた風景画や人物画。兄や父が「上手だ」と褒めてくれたこともある。

 伯爵領の市に出せば、小さなお金にはなった。


「絵を……描いて売ればいいのかもしれない」


 つぶやく声が、静かな部屋に響いた。


 けれど、絵筆も絵具も持ってきてはいない。結婚のとき、持ち物は最低限に留められていたからだ。

 道具をそろえるにはお金がいる。


(夫人としての私用の予算が、少しでもあれば……)


 セリーヌは翌朝、思い切ってクラウスに尋ねた。


「私用の費用は……少しでもいただけるでしょうか?」


 彼は一瞬考え、やがて頷いた。


「はい。夫人には本来、毎月の“公爵夫人用の予算”が割り当てられております。その管理は夫人自ら帳簿をつけることになっております」


「私が……帳簿を?」


「はい。奥様の裁量でどうお使いになるか、記録をつけていただくのです」


 セリーヌは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。

 ようやく与えられた「務め」。ほんの小さなことでも、自分の存在を形作ってくれる役割。


 だが帳簿を開いたとき、すぐに首を傾げることになる。

 出費の数字が不自然に増えている。収支の合計が、どう計算しても合わないのだ。


 眉を寄せたセリーヌに、クラウスが顔をのぞき込む。

「……おかしいですね。もしや……」


 不穏な予感が、二人の間に沈んだ。

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