第6話 影に潜む視線


 セリーヌがマルグリットを侍女に迎え入れた翌朝、公爵家の中はざわついていた。


「奥様が、自ら侍女を選ばれたそうだ」

「しかも、あのマルグリットを……」

「信じられない。あの子は下働きに近かったはずだろう」


 廊下を行き交うメイドたちの間で、その噂は瞬く間に広がった。

 長年仕えてきた古参の使用人たちは顔を見合わせ、眉をひそめる。


「公爵様が奥様に心を寄せていないことは周知の事実なのに……」

「なのに奥様は、まるでここで本当に暮らすつもりのようじゃないか」

「……あの方は、少し変わっている」


 囁きは嘲笑にも似ていたが、どこか不安を孕んでいた。

 屋敷の空気に閉ざされた距離を、セリーヌは容易く飛び越えてしまったのだ。

 それは、使用人たちにとって「暗黙の秩序の乱れ」でもあった。



 セリーヌの部屋でマルグリットは緊張した面持ちで、セリーヌの朝の支度を手伝っていた。


「……奥様、本当に私でよろしいのですか」

 リボンを整える手がわずかに震えている。


「ええ、大丈夫よ」

 セリーヌは鏡越しに微笑んだ。

「私にとって、あなたは必要な人なの」


 その言葉に、マルグリットの胸は熱くなった。

 今まで「失敗ばかりの半人前」と小突かれていた自分が、今は「信じてくれる人の隣に立っている」。

 誇らしさと責任感が、彼女の小柄な体を支えていた。


「……必ず、お役に立ってみせます」

 マルグリットは背筋を伸ばし、強い瞳で答えた。


 セリーヌは満足げに頷き、柔らかく微笑んだ。

 その笑顔は、朝の光に照らされる花のように、まっすぐで美しかった。



 回廊の陰に身を潜める一人の美しい若い侍女がいた。

 艶やかな金髪を結い上げ、整った顔立ちに濃い睫毛を持つその姿は、使用人というより令嬢に近い気品を纏っている。


 彼女の名は――リュシアンヌ・モンフェール。

 由緒ある男爵家の次女でありながら、家の財政が傾いたために「働かざるを得なかった」身。

 それでも誇り高く、己が容姿と出自に強い自負を抱いていた。


 リュシアンヌの視線は、セリーヌとマルグリットを真っ直ぐに射抜いていた。

 美しいはずの顔は、今は冷たい憎悪に歪んでいる。


(没落寸前の伯爵家の娘が、なぜこの屋敷で「奥様」などと呼ばれているのかしら)


 胸の奥からじわじわと嫉妬が湧き上がる。

 セリーヌは確かに端正な容姿をしている。

 けれどリュシアンヌからすれば、その柔らかで清らかな雰囲気こそが、周囲の目を惹くのが気に食わなかった。


 ――それに。

 マルグリットのような下働きを侍女にするなんて、あまりに愚かだ。


 リュシアンヌの唇に、冷たい笑みが浮かべている。


 その目には、露骨な敵意が燃えていた。



 セリーヌとマルグリットは廊下を歩いていると、すれ違う使用人たちは、まだぎこちない距離を保っている。

 しかしマルグリットは小声で囁いた。

「奥様、皆の視線が……」


「気にする必要はないわ」

 セリーヌは淡々と答えた。

「人の心はすぐには変わらないもの。でも、時間をかければきっと……」


 その落ち着いた声音に、マルグリットは安心したように頷いた。



 ――そして、もう一人。

 その様子を、偶然回廊の影から見ていた男がいた。


 レオンハルト・フォン・グレイヴ。


 彼は足を止め、視線を二人へと向けた。

 セリーヌが自然に人と関わり、相手の心を解きほぐす様子。

 その振る舞いは、冷たい屋敷の空気を少しずつ変えようとしているように見えた。


 ――これは、ただの契約結婚のはずだった。

 三年後に終わる、形式だけの関係にすぎないはずだったのに。


 セリーヌの笑みが、胸の奥を静かに揺さぶる。

 彼は舌打ちを噛み殺し、歩みを再開した。


「……くだらない」


 そう呟いた声には、自らを戒めるような硬さがあった。

 だがその足取りには、わずかな迷いが混じっていた。

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