聞くな
@ame1me
1.
夏は嫌いだ。
ぬるい水のように濃い空気。
それは蓋をした記憶の箱の中に、うっかり触れてしまう。
それは職場の後輩のデスクに置いてあった。無造作に、突然に。
「あぁ、カセットテープ。珍しいですよね。」
俺の視線に気がついた関川が、陽気に話しかけてきた。
黒いそれから目を逸らすことが出来ずにいると、ざあっと雨にも似たノイズが耳を過った。
‥いや、音が鳴るはずがない。ふるりと首を軽く振る。
「‥‥関川。それ、どこかに仕舞ってくれないか。」
こめかみに指を押しこむ。
絞り出すように、どうにか声を出した。
記憶の箱の蓋が、外れてしまう。
「え、なんでですか?」
まともに答える気になれずに、適当な理由を探した。
「‥生まれつき怖いんだ。」
「なんですかそれー。」
微笑んで、机の引き出しに仕舞ってくれた。
「でも、気をつけますね。もう中澤先輩の前でテープは出しませんっ。」
敬礼ポーズで誓ってくれた。
細身のスーツがよく似合っている。
「‥ありがとう。」
微笑んでトイレに退散した。
洗面台で勢いよく顔を洗う。
前髪から、ぱたた、と水滴が落ちた。びたりと冷たく張りつくワイシャツが不快で、ため息が漏れた。
記憶の箱。
嫌なものはみんなこの箱に仕舞ってきた。俺のイメージで、それは薄い灰色の、洒落た小箱だ。
普段は完璧に姿を隠してくれているのに、それはちょっとしたことで簡単に目の前に現れる。
大きく息を吸い込み、一心にイメージする。
記憶の箱を一回り大きな箱で梱包し、元の箱を見えなくしてゆく。
梱包。梱包。梱包。
カセットテープを頭から追い出すと、静かにポケットを探る。
包み紙を破り、ガムを口に放り込んだ。つるりとした感触に集中する。
何度目かのため息をつく。
忘れようと努めても、気がつくとそればかり考えてしまう。自分に嫌気がさした。
ガムかキャンディか、どちらか選べと言われたら、俺は間違いなくガムを選ぶ。
禁煙に成功して2年になるが、口寂しくなると決まってキシリトール配合の甘いミント味のガムを噛むことにしている。
嫌いなものがある。
それはガムをくちゃくちゃと噛む連中だ。あの連中だけは我慢ならない。
だから俺はガムを噛むとき、メジャーリーガーみたいに大胆な噛み方にならないよう、細心の注意を払う。
よそから見れば、俺はガムを噛んでいないように見えるはずだ。
*
沙月はキャンディが好きだった。
沙月というのは、高校の同じクラスで、図書委員会で一緒だった子だ。
沙月とは、読書という共通の趣味があった。
沙月は純文学が好きで、俺はエンタメが好きで。本の趣味はまるきり合わなかった。
いくつもの放課後。
委員会活動と称して、俺たちは図書室の張り出し窓に行儀良く並び、本を好きなだけ読んだ。
互いにお勧めを持ち寄って交換し、あの表現は良かっただの、あのキャラクターは恥ずかしくて見ていられなかっただの話した。何時間でもそうしていられた。
純文学は苦手なのに、沙月は純文学ばかり俺に勧めた。どういうわけか、俺は沙月から勧められるものはすんなりと読むことができた。
少し日焼けして白っぽくなった張り出し窓。木のひんやりと滑らかな肌触り。
沙月と過ごすこの空間ごと、すっぽり世界から切り離されたみたいだった。
春の午後の日向ぼっこみたいで、俺はしばしば張り出し窓にずぶずぶと溶け込んだ。
本を読みながら、沙月はきりもなくキャンディを口に放っていた。
もちろん俺にも惜しみなくくれた。ミルクキャンディ、フルーツキャンディ、コーヒーキャンディ。
かつては俺もキャンディが好きだった。ちゃんと好きだったのだ。
でも今はこうしてガムばかり食べている。殆ど口を動かさず、上品に。
今となってはキャンディなど見たくもなかった。
*
働くのは気持ちがいい。
毎日同じ時間に起きて、同じ時間に食事をとる。
ルーティンをこなすことは、安心だった。
「中澤、お前有給全然取ってないじゃないか。」
課長面談は、いつも何を話すべきかわからない。
「はい。結婚している人に優先してあげてください。」
ぺこりと頭を下げると、課長は困ったように笑う。
「たまには、親御さんに顔でも見せてやったらどうだ。」
はあ。ぺこり。
それとわからないよう静かにガムを噛む。
高校卒業後、大学進学のために東京に越してから、もうずっと帰省していない。
あそこには近寄りたくなかった。
「ありがとうございました。」
礼を言って席を立つ。
俺はきちんと社会人をやれている。そう思うと満ち足りた気持ちになった。
適当な生ハムと赤ワイン。それからチーズ。
誰だか知らないが、コンビニを最初に思いついて、その商売をはじめた人に、心から感謝した。仕事帰りにこうしてふらっと寄り、ちょっとした贅沢ができるのは、幸福だ。
住んでいるマンションは、築10年でまあまあ新しい。明るく清潔なロビーにはちゃんと郵便ポストがある。
ちらりと目を向けると、手紙が乱雑に詰め込まれている。仕方なく取り出すと、一枚の白いハガキが、はらはらと落ちた。
同窓会のお知らせ。
その一文を読み、舌打ちする。
くしゃくしゃに丸めて捨ててやろうか。
簡単にパスタソースをあえるだけの夕食。うきうきと生ハムを開封し、ワインを透明なグラスに注ぐ。
つけっぱなしのテレビから、楽しそうな笑い声。気持ちの上では、この時点で半分くらい酔っ払っている。
いい加減観念しハガキを手に取る。何度読み直しても、それは高校の同窓会の知らせだった。
高校。
夕方の鮮やかな、でも強すぎる日差しに照らされた、誰もいない化学準備室を思い出す。
緩い風にひらりと揺れる白いカーテン。コンセントが差し込まれたまま置き去りのラジカセ。
あんなことがあったのに、よくもまあ集まる気になるものだ。
気づけば眉間に強く皺を寄せていた。
同窓会に行く気はなかった。
卒業して10年。だから沙月がいなくなってちょうど11 年になる。
俺がカセットテープやキャンディを記憶の箱に仕舞ってから、随分と時が流れた。
赤ワインをたぷたぷと飲む。
目を閉じてゆったりと味わう。
幸福な気持ちは、風船のようにあっという間に萎んでしまった。
俺はボールペンをとり、ハガキの欠席に、勢いよくまるをつけた。
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