第17話 脱サラVTuberはつらいよ

■■■■ NOTICE ■■■■

※この話は「ウェブ小説霊安室」に保管された供養断片です。

本編化の予定はありません。

もし「まだ生きてる!」と思う方は――

「ささやき、えいしょう、いのり、ねんじろ」

または「♥で応援する」でお知らせください。




「ごめんくださーい! お届け物でーす!」


 軽快すぎる声が、狭いアパートの薄い扉を叩く。私はヘッドフォンを外し、手元のマイクから視線を上げた。


「……はぁ」


 ため息を一つ。深く、重く、澱んだ空気ごと吐き出す。これが一日の中で一番、素の自分に戻れる瞬間かもしれない。モニターの向こうには、たった今閉じたばかりの配信画面。視聴者数は、三。コメント欄には、私のテンションを心配するたった一人の優しい言葉が残されていた。


 『ルナちゃん、今日もお疲れさま!』


 ああ、陽太だ。いつも、どんな時も、必ず見てくれている。モニターの光が反射して、ぼんやりと映る自分の顔。作り物の笑顔を貼り付けたまま、固まっている。


 急いで画面を最小化して、慌てて立ち上がる。床に散らばったコンビニ弁当の空き容器を蹴散らさないよう、足元を慎重に確認しながら扉へ向かう。このゴミの山が、私のVTuberとしての現実だ。キラキラしたバーチャルの世界とは、まるでかけ離れた、澱んだ現実。


 チャイムがもう一度鳴る。


 ドアスコープを覗くと、いつもの配達員さんが立っていた。顔馴染みだ。毎週決まった曜日に、決まった時間に、決まった物を届けてくれる。


 配達員さん、はぁ、いいな。安定した職業で。


 この職業も、昔は憧れたっけ。って、なんで今さら?


 そういえば、学生時代の将来の夢アンケート、私は「公務員」って書いてた気がする。安定してて、休みもちゃんと取れて、ボーナスもあって……。そう、あの頃の私にとっての幸せは、何一つ波風の立たない平穏な生活だった。


 公務員。コンクリートジャングルを、一匹の蟻みたいに黙々と歩く日々。でも、その歩みは確実に明日へと繋がっている。


 私なんて、どこへ向かって歩いてるんだろう?


 見えない未来に向かって、砂漠を彷徨っているみたいだ。喉はカラカラ。足元は砂だらけ。


 いや、待て待て。砂漠じゃない。この部屋は砂漠じゃない。


 これは、ゴミの海だ。そして私は、その海を泳ぐ人魚姫……。じゃなくて、ゴミの海に沈んでいくゴミ人間だ!


 脳内で勝手に連想ゲームが暴走し始める。人魚姫は王子様のために声を失って、私は……VTuberになるために、安定を捨てて、お金を失って、友達も失って……。


 いや、待て。友達は最初からいなかった。


 待て待て待て。話がどんどん不幸な方向に転がっていくぞ? これじゃあ、本当に「VTuberはつらいよ」になっちゃうじゃん!


 いや、もうなってるか。


 そんな自虐的な思考で頭がいっぱいになっていると、ドアの外から再び声が聞こえた。


「田中さーん、大丈夫ですかー? いますかー?」


 その声で、私ははっと我に返った。そうだ、私、田中花子だった。きらめき☆ルナじゃなくて。


 その呼び名が、ずしりと重く肩にのしかかる。


「は、はい! 今開けます!」


 慌てて返事をして、鍵を開ける。ガチャリと開いた扉の隙間から、配達員さんの爽やかな笑顔と、ダンボールの匂いが流れ込んできた。


 その匂いは、ダンボールの、あの独特の乾いた紙の匂い。少しだけ湿気を帯びていて、まるで遠いどこかの倉庫から来たかのような、旅の匂いだ。


 いや、旅ってなんだよ。ただのダンボールじゃん。


 私は、自分の思考がどんどんあらぬ方向に逸れていくのを自覚しつつ、ダンボールを受け取った。重い。中身は、先月注文したVTuber機材の部品と、今月の食料だ。


「田中さん、顔色悪いですよ? あんまり無理しないでくださいね」


 配達員さんは、そう言って心配そうに私を見ていた。彼の目は、曇り一つない、真っ直ぐな、親切な目だった。


 その視線が、私の作り物の笑顔を打ち砕く。


 ああ、本当に顔色、悪かったんだ。


 自分の顔を鏡で見なくてもわかる。目の下のクマ、潤いのない唇、覇気のない表情。これが、私が夢見たVTuberの姿?


 いや、違う。


 私は、誰よりも輝きたかったはずだ。


 あの頃の自分を思い出す。満員電車に揺られ、毎日同じ時間に起きて、同じ服を着て、同じ道を歩く日々。周囲からは「安定していて羨ましい」と言われた。でも、私の心は満たされていなかった。


 満たされて、いなかった? いや、違う。


 私は、陽太に、もう一度、夢を見せてあげたかったんだ。


 その時、頭の中に、昔の記憶が鮮明に蘇ってきた。


 それは、陽太と二人で、夜空を見上げた日のこと。彼は、静かにこう言ったんだ。


 「いつか、ルナが、誰よりも輝ける場所を見つけてくれたらいいな」


 その言葉が、私の心の中で、ゆっくりと、しかし確実に、感情の火種へと変わっていく。


 そうだ。私は、陽太のために、VTuberになったんだ。


 私は、彼に、私という人間が、ここまで輝けるんだということを、見せたかった。


 その決意が、私の心に新たなエネルギーを灯した。


 もう、後には引けない。この道が、たとえどんなに辛くても。


 私は、ダンボールを抱え、扉を閉めた。そして、再びモニターの前に座る。先ほどよりも少しだけ、顔色が良くなっている気がした。


 「きらめき☆ルナ、再起動(リブート)。」


 私は、小さくそう呟いて、キーボードに手を伸ばした。






【診断結果】

ハウツーなのに収支マイナスだったので、心肺停止。

ウェブ小説霊安室に安置しました。

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