エッシャーに万歳
宮塚恵一
Seeking Infinity①
ふとした時に、あの人は今どうしているだろうかとか、思い出のあの場所は今どんな風になっているだろうかとか、そんなことを考えることがないだろうか。少なくとも、僕はある。そしていつも、そんなことを考えるのは無意味だと小さく溜息を吐く羽目になる。大学生という、大人に足を踏み入れてる頃だからそんなことを考えるのかと自分を客観視したりもするが、よく分からない。
死んだ人間が今どうしているかなんて、考えても仕方がない。
今日も今日とて、僕が家庭教師を任されている永住さん家の
片桐陽奈は同級生で、僕と同じ美術部員だった。同級生ではあったけれど、あまり教室で話した覚えはない。恋人でもない同じクラスの女子と教室であまり話すのもな、なんて自意識が働いていなかったとは言わないが。一番の理由は、彼女が授業を欠席することが多かったからだ。体調を崩しがちだった片桐さんは、学校そのものを休みがちだった。それでも、授業は休んでも部活にだけは来る日も少なくなく、それで彼女との思い出はどうしたって、美術室でのものが多い。
数少ない教室での記憶というと、彼女が休み時間も一心不乱に机で何か絵を描いているのが気になって、何を描いているのだろうとちらっと見に行った時だ。美術部では部員みんなコンクールに向けて自分の絵に苦心していた時期だったから、その絵の構想でも考えているのかと思って近づいたら、違った。
「エッシャー?」
彼女が描く絵を見てそう呟いた僕の言葉に、片桐さんはビクッと肩を震わせて後、勢いよく僕の方を向いた。
「あ、前野くん」
片桐さんは僕の顔を確認するとホッとしたように息をついて首肯した。
「うん。好きなの、こういうの」
片桐さんが描いていたのは、エッシャーの作品の中でも取り分け有名な作品、『滝』の模写だった。鉛筆だけの素描ではあったが、この作品の肝である水路が、手本もないのによく描けていた。エッシャーは騙し絵で有名なオランダ人画家だ。特に有名なのはやはり、片桐さんも描いていた『滝』だと思う。水道橋とそれに繋がる水車小屋を描いた作品だ。水道橋の上から水車に落ちた水が、また水道橋を通って上っていき、その水が水車に落ちる、という現実ではあり得ない構造の絵を描いている。無限に続く水流を見ていると、いつも自分の見ている物はこの世の全てじゃないと思えるような不思議な感覚に陥る。
「こういうのって?」
「始まりも終わりもない感じ」
「なるほど」
その日の教室でのやり取りで思い出せるのは、そんな感じの会話だけ。けれど、そういう会話をしたから、その後の片桐さんの動向も覚えている。片桐さんは、確かにこういうのが好きだった。絵を描いていると、絵を描く息抜きの為の絵なんてものを書きたくなることがよくあるが、片桐さんにとっての息抜きこそそれだった。休み時間や部活で描く課題の合間の休憩、あらゆる時間で片桐さんは描いていた。エッシャーの『滝』や、彼が『上昇と下降』という作品で描いていたような無限にループする階段、二匹の蛇がお互いの尾を食んでいるウロボロスなど。
「片桐さん、息抜きを作品で書こうとは思わないの」
そんな疑問を口にしたのは確か、夏休みが終わった秋口、二人で美術室でコンクールの課題を描いている時だった。美術部の部員で普段から活動しているのは先輩後輩を含めても片手で数えられるだけしかおらず、遅くまで部室に残っているのは大抵、僕と片桐さんだけということも少なくなかった。だから、彼女との思い出のほとんどはこの二人きりの時間だった。片桐さんは僕の問いかけに、それまで動かしていた手をピタリと止めて、絵筆を置いた。
「確かに」
片桐さんは、盲点だったとでも言うような顔をして、僕の方を見た。
「前野くんは見たい?」
「まあ、好きなもの描いた方が良いかな、とは」
「そっか。じゃあ、今度描いてみようかな」
片桐さんは、首を傾げて考えた素振りをした後に首を縦に振った。
「うん、じゃあ描いてみる」
実際、片桐さんはその次の年のコンクール課題で、エッシャーの騙し絵のような作品に手をかけた。僕が言うまでもなく、片桐さんは自分でもいつかはコンクールの為に騙し絵の作品を描き始めたと思っている。それでも僕の一言がきっかけであの絵を描いたというのは今でも少し誇らしい。片桐さんが描いたのは、無限に続く階段の周りに学校の教室と、楽しそうな学生達を描いた作品で、作品を提出したコンクールで最優秀賞を取った。因みに僕の絵は箸にも棒にも引っ掛からなかった。
🖼️
瑛士くんの家庭教師をやらないかという申し出は、僕の母から貰った。永住さんは同じアパートに住んでいる人で、母とはパートの同僚でもあるらしく、永住さんの息子が僕の通っていた高校を目指していると聞いた母が、それなら僕に教えてもらうことにしたら、という話をしたらしい。家庭教師のバイト自体は他にもしていたし、当時僕は大学に入ってすぐに付き合った恋人と別れたばかりで暇を持て余していたというのもあり、二つ返事でその頼みを承った。
別れた恋人は、片桐さんに似ていた。と言っても、別れてから考えると似ていたのは髪型と目筋くらいだったなと思う。半年くらい付き合って、お互いの家を行き来するくらいの仲にはなったのだが、彼女曰く「一緒にいても別のこと考えてる」「私を見てほしかった」とのことだった。自分にそんなつもりはなかったが、そんな風に言われると、片桐さんとだったらそんなことなかったのかな。今、彼女は──まで考えて
家庭教師先の瑛士くんについて、僕も町内会か何かで面識があると言っていたけれど、当然そんなことは覚えているわけもなく、他の家庭教師のバイト先でしてたのと同じように瑛士くんには接した。瑛士くんは口数の多い方ではなく、話しかけても返事をしてくれないことが多かった。とは言えこの手の生徒にもそれなりに慣れてはおり、別段困った生徒というわけでもなかった。永住さんは、知り合いだからと言って授業料をまけようとするようなことはなく、むしろ少し色をつけて給料をくれた。家庭教師を辞める理由もなかったし、瑛士くんが高三になるまでずっと指導を続けた。だから、バイトを始めてすぐの時よりは、彼も少しは僕に慣れてくれたのか、長い会話こそしなかったが「先生は高校の時は何してたの?」とか、僕が彼の志望先の卒業生であることを知っている瑛士くんは、志望校のことや僕の高校生活についての問いかけをしてくれることが増えた。その度に片桐さんのことを思い出していた。彼女は今──。
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