第4話 アドルの家

 村の中でも端の方にぽつりと一軒木製の家が建っていた。木製の家は無骨な作りで最低限の家という体裁を整えただけのものだったが、住む上では立派で上等なものだろう。その一部分が不自然なまでに色の違う木で斜めに張り替えられている。

 辺りも暗くなり家々から光が漏れだすようになる頃に、アドルは家の扉の前で純粋そうな笑みを浮かべて一人ぽつりと立っている。そして、ドアノブに手をかけると一つ深呼吸をして、扉を開け放った。


「ただいま~。」

「お、おかえり……なさい。」


 アドルが家の中に入りすぐに明るい声をかけると、緊張したように震える女の声が返ってくる。そのまま声のところに彼が踏み込んでいくと、妙齢の女がそこにはいた。アドルの母であった。

 アドルの母はエレーゼという。彼女の美しい銀色の髪は後ろに一つ結びにされ、普段のおっとりした顔が今では恐怖や緊張やらで引きつっている。緑色の目はアドルの蒼天の瞳とは合わず、床ばかりが映っている。


「あはは、今日もいい天気で森は心地よかったよ。」

「そ、そう。よかったわね。」

「あはは。今日のご飯は何かな~。」

「ご、ご飯はクリーム煮とパンよ。」


 にこやかな笑みを浮かべて話すアドルと、返事をしながらもエレーゼは目を一切合わせようとしない。二人の間には冷や冷やした空気が絶えず流れて、家の温度を2度も3度も下げている。今の二人しかいない家は心温まるものでなく、壊れたものをもう一度こねくり回し、形だけを整えたかのようだ。

 ご飯という言葉と共に机に置いてある器を見る二人は、ようやくその時に同じものを見た。木の器には牛乳で煮込まれた野菜やキノコが入っており、その隣のパンは黒く見るからに固そうである。


「えー、またか~。」

「……ご、ごめんなさい。」

「謝らないでよ。」


 びくびくしながら謝るエレーゼにアドルはにこりと笑ったまま感情のない声を出した。そんなアドルの雰囲気はこの部屋の温度をさらに2度は下げただろう。

 しかし、アドルのそれもおかしくはないことだ。わざと普通の子なら軽く叱られるような言葉を言っても、怯えられて謝られるなど7歳の子供でしかないアドルには到底受け入れられるものではない。実際にされたアドルの心はどれほどの負荷がかかっただろうか。


「ひっ……ごめん、なさい。ごめんなさい。ごめんなさい。」

「……っ。こっちこそ、ごめん。我儘言っちゃって、あはは。」

「……。」


 アドルのにこりと笑ったままの感情がない声はエレーゼをさらに追い込み、喉の奥がぎゅっと締まりか細い声が漏れ出た。その後でがたがたと身体を震わせながら膝を折り、縋るようにアドルの身体を両手でつかむと何度も、何度も謝り続ける。

そんな母の様子に感情がぐちゃぐちゃになりながらも、にこやかな笑みを湛えてアドルは笑いながら我儘を言っただけだと嘯く。そんな彼の様子に身体を震わせながらも、母は困ったように目を左右に揺らす。


「……お父さんは?」

「い、いない。また、飲んでる。」

「……そう。言おうか?」


 アドルのお父さんという言葉に一瞬びくりと身体を震わせるエレーゼであるが、事実を口にする。虚空を眺めるようにしていたアドルは目線を母に向けて、未だに身体を震わす母に提案をする。


「やめてっ。お前にあの人の何が分かるのっ!!」


 突然、アドルに母からの怒声があげられる。恐怖と緊張で覆われていた顔は今では怒りで塗りつぶされており、身体の震えは消えていた。彼女の強い意志は手からアドルの身体に伝わり、アドルを動揺させた。


「……っ。……ごめん。」

「はぁ、はぁ。……ぁ、違うの。そうじゃないの。こんな風にしたいわけじゃないの。ごめんね。ごめんね。」

「いや、……。」


 謝るように呟いたアドルの言葉によるものか、エレーゼの怒りは身体から抜け落ち、顔を蒼白に返させた。自分でも何を言っているのか分かっていないであろうほど、彼女はぶつぶつと何事かを呟き、謝りだす。

 そんな母の様子にアドルは彼女の肩に手を伸ばしかけ、しかし肩に置かれることはなく拳を身体の前で握りしめるだけに終わった。


「今日は一人にさせて。……ごめんね。」

「こっちこそ……ごめん。」

「……。うっ、うう……。ぅっ。……ううっ。」


 エレーゼが部屋に戻ると微かに部屋の中からすすり泣く声が漏れ出てくる。そんな彼女の様子にアドルは横からガツンと殴られたような衝撃を感じた。握りしめている拳はより強さを増し、彼の身体がふるふると震える。


「っ……くそっ。……はぁ、飯食うか。」




「ははは。帰ったぞ~。」

「……おかえりなさい。また飲んでたの。」


 アドルが二階の部屋に戻り休んでいると一階が騒がしくなる。父と母の話し声がアドルの耳にも届く。陽気な父の笑い声は先ほどの冷え冷えとした空気が嘘の様で、母の苦言の声も幾ばくか優しいものだった。


「ひっく、わりぃかぁ~。」

「……食べれなくなるわよ。」

「ははは。うっぱらえば?あいつ。」

「何言ってるの……。酔っぱらいすぎよ。」


 完全に酔っぱらったような父の様子に母は呆れたように肩を竦めるが、その声音はやはりどこか優し気であり、二人の関係がそれほど悪いものでないのが分かる。だからだろうか、ぽつりと父の口から本心のように売ればいい、なんて言葉が出てしまった。


「ひっく、けけけ、化け物は売れねぇか。」

「やめてっ。……私たちの子よ。」

「……。ふんっ、子供ね。あんなの俺の子供じゃねぇ。」


 アドルの父が子供のことを化け物といい、俺の子供じゃないなんてことを言ったのは酔っぱらいの戯言か、それとも心の奥底の言葉が表面に出てしまったのか。しかし、確かにその言葉を吐いた彼の言葉には憎悪を感じさせた。


「あなたっ。やめて、……やめてよ。何でなの。何でこんなことになったの。うっ、うう……。」

「ちっ、泣くなよ。明日は働くさ。」


 とうとうエレーゼは泣き出してしまい弱ったように父は左腕で彼女の肩を抱く。酔いは醒めたようで舌打ちをしながらも明日という日の約束を交わし、ぱたりと二人の部屋に入っていった。




「……っ。はぁ、はぁ。くそっ。くそがっ。」


 二人の会話を余すことなく聞いた、聞いてしまったアドルは部屋の片隅で一人足を抱え込むように座り、足に顔を埋めた。彼が身体を震わすのを見ていたのは頭上に輝く月だけであった。彼の孤独な夜は始まったばかりである。

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