0-32 可愛いわね
秋葉原といえばメイド、メイドといえば秋葉原。ブームそのものはすでに下火だと言われて久しいけれど、この街の片隅に息づくメイドたちは、あたしのこれまでの短い人生で出会ってきたどんな女子たちよりも、ずっとキラキラして見えた。アイドルほど遠い存在ではなく、手を伸ばせば届きそうな距離にいる――そんな錯覚を与えてくれる。今の店内を見渡せば、カウンターに六人、ソファ席にはあたしを含めて八人の客。女性はあたしだけで、他はすべて男性客だったけれど、それでも席はほとんど埋まっていた。そしてメイドさんたちは、さっきオーダーを運んでいった子も含めて七人。活気と熱気が、狭い空間をぎゅっと押し広げていた。
そういえば、今日のあたしの格好は、ピンクのカチューシャに小さなリボン、白いブラウスの上からピンクのカーディガンを羽織り、短めのスカートに白いレースのソックス。頭から足の先まで、徹底したピンクと白のコーディネートだった。他人の目からすれば、ここにいるメイドさんたちと大差ないように見えたかもしれない。だけど鏡に映る自分の顔は、可愛さよりも泣き出しそうな翳りを帯びていて、せっかくの色合いも半減しているように思えた。
「お嬢様」
不意に呼ばれて、思わず「わッ」と声を上げてしまった。振り向けば、あたしの隣にアイスティーのグラスを持った別のメイドさんが立っていた。彼女はさっきの子とは違って、肩までの茶色の髪をきゅっとツインテールにまとめていて、人形のように整った顔立ち。背丈もあたしと同じくらいで、親近感があった。その滑らかな日本語から察するに、日本生まれ日本育ちなのだろう。胸元の名札を指先で示しながら、彼女は丁寧に自己紹介をした。「あさみ」と書かれた文字が、きちんとした字面で光っていた。
「初めてのご帰宅なのですね、お嬢様。先ほどのテリーは日本語が少し苦手なので、代わりに私が最初のお飲み物をお持ちしました。それと同時に、当店の料金システムについてご説明させていただきますね……」
その口調はまるで朗読のようで、言葉が耳に心地よく流れ込んできた。
説明によれば、あたしが座っているのは「普通席」。ほかには、メイドさんと一緒にゲームができる特別席もあって、料金が少し高いらしい。とはいえ、どこも千円前後で、それほどの負担ではなかった。普通席は時間無制限だが、飲み放題は三十分ごとの区切りで、延長しなければ次からの注文はできない。事務的なことを言っているはずなのに、「ゆっくりとお寛ぎくださいませ」と優雅な言葉で締められると、あたしの頭は一瞬空白になり、ただ頷くしかなかった。
説明を終えたあさみちゃんは、その場にひざまずいて、砂糖はどれくらい入れますかと訊ねてきた。「五杯で」と答えると、驚いたように目を丸くし、シュガーポットの蓋を開けながら「まあ、甘いもの好きなのね?可愛いわね!」と弾む声で言ってくれた。
――可愛いわね。可愛いわね。可愛いわね。
その響きが頭の中で何度も反響し、自分が本当に可愛い存在なのだと錯覚してしまいそうだった。
「一杯……二杯……三ばーい」彼女は冗談めかしながらスプーンで砂糖をすくい、ゆっくりとグラスの中でかき混ぜた。透き通る琥珀色が渦を巻き、白い粒が淡く溶けていく。その動作のひとつひとつが芝居がかったように丁寧で、最後にグラスをそっと差し出し、「ごゆっくりどうぞ」と微笑んだ。
伝票を取り出してアイスティーの欄に小さなチェックを入れると、机の上に置きながら尋ねてきた。「お嬢様、初めてのご帰宅ありがとうございます。お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「えーと……こ、瑚依です」と答えると、「まあ、可愛い名前ですね!では、瑚依お嬢様、今日はどんなきっかけでご帰宅になったのですか?」と問いかけられた。
「き、きっかけっていうか、何となく……です。」曖昧に返すしかなかった。辛い出来事を抱えてここに来たことなど言えるはずもなく、でも誰かとのつながりを求めて足を運んだのは事実で、その矛盾に胸の奥がきしんだ。
彼女はあたしの答えを深読みすることなく、緊張していると思ったのか、クスクスと笑って「そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ、お嬢様。秋葉原にはよく来られますか?」と話題を変えてくれた。
「い、いいえ。1か月前に一度だけ……今日は二度目。」と応じると、「なるほど。では、瑚依お嬢様は関東出身ではないのですね」と推測するように言い、唇に指を添えて首を傾げた。
「ええ……実家は札幌です。」そう答えると、彼女は目を輝かせて「まあ、北海道!雪の国ですって!」と声を弾ませた。「東京では雪はめったに降りませんから、羨ましいです。夏も涼しいし、ぜひ行ってみたいですね!」と立て続けに言葉を投げてくる。あたしにとっては雪なんて見飽きるほどで、むしろうんざりするくらいなのに。
「お嬢様、1つ伺っても?雪の中を歩くときの感触……ふわふわして、とてもロマンチックだと聞いたのですが、本当ですか?」あさみちゃんの興奮は止まらず、質問が雪のように降り積もる。
……ふわふわ、なんてとんでもない。厚い雪の下は大抵氷で、気を抜けば道路の真ん中で滑って転ぶ危険がある。数年前には、銭函にいた親戚のおばあちゃんが大雪で家ごと閉じ込められたこともあった。北海道で暮らす者にとって、雪はロマンチックなんて生易しいものじゃない。むしろ生活を脅かす現実だ。
ぶっきらぼうにそう言いかけたあたしの表情を見て、あさみちゃんは困ったように笑みを引きつらせ、言葉を探すように唇を開きかけた。その瞬間、新しい客がドアを開けて入ってきたので、彼女は立ち上がり、「あ、すみませんお嬢様、また後ほどお話ししましょうね~」と軽やかに言い残して、忙しそうに走り去っていった。
テーブルに残されたアイスティーの氷がカランと音を立てる。やっとひと息つけた……人と話すって、こんなにも疲れることなんだ。そう実感しながら、あたしはゆっくりとグラスに手を伸ばした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます