0-01 弱肉強食

 父が珍しく出張に出ていない夜。

 家の空気は、わずかに柔らかさを帯びていた。


 父は「子どもは褒めて伸ばすのが一番だ」と信じていて、その姿勢はしばしば母とぶつかり合った。お人好しで、頼まれごとを断れず、隣人からの小さな手伝いも、仕事仲間の無茶な要求も、得意先の理不尽も、結局は背負い込んでしまう人だった。困惑しながらも切り捨てられない――その優しさを、幼いあたしでさえ敏感に察していた。

 けれど、筋の通らない悪ふざけや道理を外れた行為には、容赦なく叱りつけた。その瞬間、父の人の好さの奥底に、鋼の芯が潜んでいるのを垣間見た。


 自由奔放な姉と違って、あたしは内向的でおとなしい子どもだった。だから母は、より多くの期待をあたしに背負わせたのだろう。

 姉には持病のこともあり、口では厳しく言いながらも本気で叱り切れない。だからこそ、矛先はあたしに向かってきた。ピアノ、ヴァイオリン、ダンス、英語塾。幼い身には息つく暇もなく、次から次へと習い事に駆り出された。


 小学校二年のころ。姉と共に立たされた音楽バーでの演奏会。

 照明の下、あたしは細い指を震わせ、汗で鍵盤が滑るのを必死に抑えながらピアノを弾いた。見知らぬ大人の視線が重く刺さり、喉は渇き、心臓は耳元で鳴り響いていた。ただ追いかけるように、必死に音をなぞるしかなかった。


 けれど姉は違った。

 彼女はヴァイオリンを構え、パガニーニ《24のカプリス》第五番を、まるで息をするかのように奏でた。母が用意した挨拶原稿など無視して、自然体で笑いを交え、客席を沸かせる。拍手は嵐のように降り注ぎ、観客の視線は完全に彼女を飲み込んでいた。

 「この子は将来、必ず大きな人間になる」――あるマダムの呟きが、耳に残った。もちろん、そのあと母には叱られていたけれど。


 対するあたしは、モーツァルトの「トルコ行進曲」ですら満足に弾けなかった。頭は真っ白になり、指はもつれて、曲の流れを見失った。足は震え、退場する頃には呼吸さえ荒く、胸を掻きむしりたくなるほど苦しかった。


 客席からは温かな拍手があった。だが、その裏で交わされた囁きも、耳は逃さなかった。


 「やっぱり、姉とは比べ物にならないわね。途中で適当に弾いてたの、素人の私でもわかった」

 「適当だなんて……でも、必死だった気持ちは伝わったわ。緊張してたのよ」

 「まあ、小学二年にしてはよく頑張ったほうじゃない」


 優しい声もあった。けれど胸に突き刺さったのは、「比べ物にならない」という一言だった。

 舞台裏に戻った途端、足が崩れ、声を殺して泣き続けた。

 ――なぜ、あたしばかりがこんな思いをしなければならないのか。

 幼い胸に渦巻いたのは、悔しさとも嫉妬ともつかない、理不尽な感情だった。


 母は――厨房に立っている時以外は鬼のようだった。


 「瑚依!肘をついて食べない!」

 「立て箸は何度言わせれば気が済むの!」

 「食べ残しは許さない。好き嫌い言わず全部食べなさい!」

 「足を組む?はしたないにも程がある!」


 小さな所作ひとつにまで雷を落とす。雲のように消えて叱責をかわす姉は捕まらず、要領の悪いあたしばかりが矢面に立った。


 ある晩、リビングを通りがかると、両親の声が聞こえた。

 父の声は低く、切実だった。


 「なあ……神音のことはともかく、瑚依には厳しすぎないか?子どもには遊んだり、自由に過ごす時間も必要だろう。それは英語塾やマナーの稽古より、大切なんじゃないか」


 眉間に皺を寄せ、父は母を説得しようとしていた。

 けれど母の返答は鋭かった。


 「冗談じゃない!瑚依は神音よりも弱気な性格。だからこそ、この弱肉強食の世の中を生き抜くには、今のうちに優位性を掴ませなきゃいけないの。私たちはいつまでもそばにいられない。だから、子どものうちに自分の力で生きる術を身につけさせる。それが母親の役目よ!」


 父はそれ以上、何も言えなかった。

 静寂の中で時計の秒針がやけに大きく響き、あたしの小さな胸はきゅっと縮んだ。


 ――それでも、あたしは知っていた。

 母の厳しさの奥に、誰よりも深い愛情があることを。

 その愛は牙のように鋭く、時にあたしを泣かせたけれど。

 流した涙の一滴一滴が、母の想いの証であることを、子ども心に確かに感じ取っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る