一章:さかなのゆめ①

 昔はこうじゃなかった。

 息苦しさなんて感じたこともなかった。

 一番の遊び場だった。

 どこまでだっていけた。

 ぼくは魚だった。

 きっとあのころのぼくは空だって泳げていた。

 でもそうじゃなくなった。

 溺れたあの日、ぼくの自由は夢になった。

 とおいとおい、昔の夢に


「――はぇ?」

 夏季休暇のある一日、膨大な本に囲まれ透瑠とおるは素っ頓狂な声を上げた。

『霧岬市立水族館』学生向けの飼育員の研修に参加していた彼女は、レポート作成のため館内の資料室に籠っていたのだが、そこで一冊の奇妙な本を発見した。

 歴代の飼育員が残した資料でもなければ、一般に流通している書籍とも異なる、それは革装丁の古ぼけた手記だった。

 中身は、おそらく筆者が見たであろう水生生物の記録。くせのある字で書かれたくせのある記述に、妙に細かな画調。一般的な書籍とは趣の異なる内容に、透瑠はいつしか夢中になって読み耽っていたのだが、ある頁に差し掛かったところでその手が不意に止まる。

 手記に書かれた生物はいずれも霧岬市、ひいては県内に生息するものばかりで、水族館の展示内容とも一致していた。透瑠もそれ故にここに納められているのだと考えていた。

 しかしその頁は違っていた。

『アノマロカリス』透瑠もよく知る古代生物が、他の生物と同じように描かれていたのだ。

 まるで生きているものを間近で観察し描いたような、あの画調で。

 透瑠は描かれた怪物めいた生物をそっと撫でる。そうした理由は、彼女自身にも分からない。

 ただ何かを確かめようとして、そして答えは得られなかった。それだけを彼女はなんとなく理解した。

「……」

 手記が書かれた年代はおろか、書いた人間の名前さえ判然としない。分かっているのは

「――うわぁっ⁉……って伊富いとうさん?そっか、まだ帰ってなかったんだね」

 暗くない?点けていいんだよ。蛍光灯の光が透瑠の目を焼く。声を掛けられてはじめて、彼女は陽が大きく傾いていることに気付いた。

「時間大丈夫?問題ないものだったら、言ってくれれば持って帰ってもらっていいんだけど」

「あの、館長、この本なんですが……!」

 館長、可児江の言葉に透瑠は半ば遮る程の勢いで食い付いた。平時の彼女らしからぬ言動に、可児江は少し面食らいながらも、示された手記を見る。

「……これは、ここにあったの?」

 他の資料とは趣の異なる一冊を、彼は怪訝に目を僅かに細め見やる。そして中を検め

「うーん、これはごめんね。いいものかどうか分からないから、一旦待って」

 眉をハの字に、可児江は申し訳なさそうに苦笑する。

「はい、分かりました」

 少し残念に感じつつも透瑠はすぐに、またここで読めばいいのだと、考え直す。

 そして彼女は資料室を後に、家路に着くのだった。

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