いつのまにか彼女に染められていた
晴好雨奇
第1話 プロローグ
水瀬 莉子と桜井 楓の出会いは、決してロマンチックなものではなかった。
あれは高校入学直後のことだ。クラスの誰ともろくに口を利かず、ただ静かに机に向かっていた私に、嵐は突然やってきた。
「うわっ!」
横から響いた、元気いっぱいの間抜けな声。次の瞬間、ドン!という衝撃と共に、私の机の上はカラフルな教科書とノート、そして大量の筆記具で埋め尽くされた。
視線の先には、お尻から転んで床に座り込んでいる女子生徒。頬を赤く染め、申し訳なさそうに私を見上げていた。
「ご、ごめんなさい!ぼーっとしてて、前見てなくて……」
彼女が慌てて立ち上がり、私の机を片付けようと手を伸ばしたとき、私は初めて彼女の顔を正面から見た。
きらきらと輝く大きな瞳、八重歯がのぞく無邪気な笑顔。そして、胸元で揺れる、女子高生らしからぬ豊満な膨らみ。
「大丈夫」
私は端的にそう答えた。
だが、言葉とは裏腹に、心臓は妙な音を立てていた。その場で固まっている私を尻目に、彼女はテキパキと散らばったものを拾い集めていく。その手際の良い動きは、彼女の普段の明るさを物語っているようだった。
「本当にごめんなさい!私、桜井楓です!水瀬、さん、だよね?同じクラスだし、これからよろしくね!」
太陽みたいな笑顔で差し出された右手に、私は無言で彼女が落としたシャープペンシルを差し出した。楓は一瞬きょとんとした後、はははと明るく笑いながら私の手からそれを受け取った。
それが、私たち二人の始まりだった。
それからというもの、楓は私の席の周りをうろつくようになった。教科書を忘れたから見せて、とか、今日の昼休み、屋上に行こうよ、とか。
当初は無表情でやり過ごしていた私だったが、楓は決して諦めなかった。
そんな状況が続いたまま夏休みに突入して、私はぼっちの長期休暇を送ったのだった。
「ねぇ、莉子〜。また無表情だよ〜?つまんないってば」
そして、夏休み明けの教室、もわっとした熱気の中、隣の席の楓がにこにこと私に話しかけてくる。
ヒグラシやツクツクボウシなどの、夏の終わりを知らせる蝉の声が絶え間なく響き、生温かい風がカーテンを揺らす。私は窓の外に視線を向けたまま、何も答えない。心の奥では、もう別の感情が渦巻いている。
(今日も楓は元気だなぁ……。胸、揺れてるし……)
「もう、また無視かぁ。しょうがないなぁ」
そう言って、楓は突然、私の頬を両手で挟んだ。人差し指と親指で、無理やり口角を上げてくる。
「ほら、笑って笑って!」
その感触に、ゾワリと全身に鳥肌が立った。恥ずかしさよりも、心地よさが勝る。楓に触れられるのは、どうしてこんなにも満たされた気持ちになるのだろう。
「や、やめ、なさい」
わずかに声が震える。楓は私の動揺を察知したのか、にんまりと悪戯な笑みを浮かべた。
「お、莉子が喋った!もしかして、嬉しい?」
「うるさい」
ぶっきらぼうにそう言い返すと、楓はまた楽しそうに笑った。この子に揶揄われると、いつも調子が狂う。それが嫌じゃないから、私もこの関係を続けている。
「そういえば、夏休み中に私と出かけなかったじゃん。私、寂しかったんだからね?」
楓はそう言って、私の頭を撫でる。その手が、あまりにも優しくて。私はそっと目を閉じた。楓に甘やかされるこの時間が、何よりも愛おしい。
夏休み中、
彼女に無理やり渡された連絡先から、遊びの催促があったが、小心者で夏の暑さに溶けていた私は、結局彼女とお出かけなどしなかった。
梅雨が明ける前までには、無理やりスイーツ巡りに連れ出されていたのだが。
実は私も寂しかったよ。
そう言おうとしたが、口を開かない私の表情筋が本当に憎らしい。
「じゃあさ、ねぇ、莉子。今日、私と一緒にクレープ食べに行こうよ!新しくできた店があるんだ」
ビクッ。
「おや、今までで一番良い反応が!さてはクレープに惹かれたな!この甘党め!」
.......なんて言われて揶揄われたからには、行くしかないじゃないか。
べ、別に食べ物に釣られたわけじゃないんだ。
「暇だから別にいいけど」
「やったー!」
楓は私と手をつなぎ、スキップでもしそうな勢いだ。私は差し出された手を振り払うこともせず、ただ静かにその温かさを感じていた。
放課後、新しいクレープ屋さんの店先で、楓は私の顔をまじまじと覗き込んだ。
「莉子ってさ、絶対チョコバナナ選ぶよね。なんか、見た目に反して子供っぽいところ、好きだよ」
「……うるさい」
楓の言葉に、心臓の鼓動が早くなる。そんな私を面白がるように、楓は自分の頼んだイチゴと生クリームのクレープを差し出した。
「ほら、一口あげる」
「いらない」
「えー!ケチ!」
楓は拗ねたように唇を尖らせ、私のクレープを強引に一口奪い取った。
「ん〜!やっぱり美味しい!莉子の味、最高!」
「私の味って……」
あまりにも無邪気な言葉に、私は顔から火が出そうだった。楓はそんな私を見て、大爆笑している。
「次、私の番だよ!」
そう言って、自分のクレープを私の口元に押し付けてくる。仕方なく口を開けると、甘酸っぱいイチゴの香りが鼻腔をくすぐった。それは楓の纏う甘い香りと、同じだった。
そんな私たちの様子を見て、通りすがりの同級生がヒソヒソと話し始めた。
「ねぇ、見てよ。あの二人、相変わらずラブラブだね」
「水瀬さんって、桜井さんの前だとすごく表情豊かになるよね」
「クールビューティーとか言われてるけど、実は桜井さんのこと、めちゃくちゃ好きなんだって」
耳に届く噂話に、少しだけ胸がくすぐったくなる。楓のことが好きだって、周りにバレても構わない。そんな風に、少しだけ思ってしまった。
なのに、彼女は呑気にクレープを味わっている。私の考えなんか気にも留めないで、もぐもぐしている姿を見て、不覚にも可愛いと思ってしまった。
帰り道、ついでに私たちは商店街のゲームセンターに立ち寄った。楓が目を輝かせているのは、UFOキャッチャーだ。
「莉子、見て見て!あのウサギのぬいぐるみ、超可愛い!絶対欲しい!」
そう言って、楓は意気揚々と100円玉を投入した。しかし、彼女の腕前は目も当てられないほどだった。クレーンはことごとく空振りを繰り返し、ぬいぐるみに触れることすらできない。
「くぅ〜!もう!なんで取れないの〜!」
両手を腰に当て、ぷくっと頬を膨らませる楓。その表情が愛おしくて、私は思わずフッと笑ってしまった。
「なによ、莉子」
「別に」
楓をからかうように、私は無言でUFOキャッチャーに100円玉を投入した。そして、正確無比な動きでクレーンを動かす。カチャン、という音と共に、ウサギのぬいぐるみはアームに掴まれ、そのまま出口に落下した。
「え!すごい!莉子、天才!」
目を丸くして私を見つめる楓。その素直な賞賛に、私の胸は温かいもので満たされた。私はぬいぐるみを受け取ると、無言で楓に差し出した。
「わーい!莉子、ありがとう!この子、私の宝物にするね!」
楓はそう言って、ウサギのぬいぐるみを抱きしめた。その満面の笑みが、私の心に焼き付く。
その日の夜、楓から届いたメッセージには、ぬいぐるみを抱きしめて満面の笑みを浮かべる彼女の写真が添付されていた。私はその写真を見て、自然と口元が緩んだ。ああ、写真を保存しておかないと。
幸せだ。
そんな甘い時間は、これからもずっと続いていくのだろう。
無愛想な私と、太陽みたいな楓。私たちの日常は、甘くて、少しだけおバカな百合コメディーで彩られている。そして、いつかきっと、私の口から、心の奥に秘めていた言葉がこぼれる日が来るだろう。
「楓、大好きだよ」
その日が来ることを、私は密かに、そして心から願っていた。
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